「法華経 観世音菩薩普門品第二十五」において、「念彼観音力」という仏語が繰り返し続きます。

🚃電車の中で大覚寺のCDを聴きながら、この「念彼観音力」とはどういうこと、どういう意味だろうかと考える。

法華経は聖書である。それではこの「観音経」はどうだろうか。パウロの手紙がもとになっている。

特に「コリント人への第二手紙」10章、11章、12章を読みましょう。ここには動詞の「誇る」という語句がたくさん出てきます。

多くの苦難、迫害をイエスへの信仰の力で乗り越えてきたパウロが、これらの事を私は誇らずにはいられないという見方です。外圧よりも内部からの自身の貧相な姿を直接見て、なーんだ大したことじゃないかという言葉です。こちらのほうが精神的に辛いかもしれない。

十一面観世音菩薩立像の「十一面」は一番上が「キリストの力が私の上に宿るためである」です。

十の仏面は、簡潔に語ればパウロの手紙をよくよく読んでみると十全に及んでいる優れた知見と教えを表していると信じる。「観音経」の始めに登場する無尽意菩薩(むじんにぼさつ)の無尽とは、縦横無尽というということである。パウロの手紙を読むと頭が良くなる。こんな難問奇問に際してスラスラと答えられるものかと感服します。十方無尽によどみなく語られるパウロの手紙全文を十の仏面で表現している。

まだ他にもあるでしょうが、今日はここまでにします。

「観音経」は旧約聖書の詩篇と新約聖書のパウロの手紙を織り交ぜて書かれた仏典です。

🚃電車の中で大覚寺の観音経を聞いて、念彼観音力と聞こえたらパウロの「私は誇らずにはいられない」という文章を想い出す。