エホバの証人の排斥や断絶という制度がどういうものかを知らない一般の方々向けの資料となっています。(よくご存知の皆様は長いのでスルー願います)



「エホバの証人ではなくなりました」と発表されることは、いわゆるただの "脱退のお知らせ"  とは違い

"共同絶交宣言" 

であることをものみの塔聖書冊子協会の資料からご確認頂ければ幸いです。



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排斥処置とは、自分達の中から邪悪な人を除くための行為だとされています。

聖書のコリント人への第一の手紙513節にある「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」という言葉が根拠とされています。

 


わたしは自分の手紙の中で,淫行の者との交友をやめるようにとあなた方に書き送りましたが,10 それは,この世の淫行の者,あるいは貪欲な者やゆすり取る者,また偶像を礼拝する者たちと全く[交わらないようにという意味]ではありません。もしそうだとすると,あなた方は実際には世から出なければならないことになります。11 しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように,と書いているのです。12 というのは,わたしは外部の人々を裁くことと何のかかわりがあるでしょうか。あなた方は内部の人々を裁き,13 外部の人々は神が裁かれるのではありませんか。「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」とあります。

コリント第一5:9-13

 


また、ヨハネによる第二の手紙  10節にある「この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。」との言葉をも根拠として、挨拶もしない、徹底した集団無視が始まることになります。

 


一方、断絶とは、口頭でエホバの証人の活動を辞める事を伝えたり、書面で脱退届を提出することによって成立します。

この断絶という行為も排斥と同様、「〇〇さんはエホバの証人ではなくなりました」と地元の会衆の集会で発表され、集団無視の対象となります。

それは、ヨハネ第一の手紙219節にある通り、出ていった者は仲間ではなく、排斥者と同じく悪い道に逸れてしまった者とみなすからです。

 


19 彼らはわたしたちから出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたちの仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです。しかし[彼らが出て行ったのは],すべての者がわたしたちの仲間なのではないことが明らかになるためです。

ヨハネ第一2:19


 

エホバの証人が排斥者、断絶者に行なう集団無視は、会衆(組織)の清さを保つ為という理由と、本人に悪い行ないを反省させ、再びエホバの証人としての良い立場に戻りたいと考えさせるための愛のある行為だと説明されています。


 

以下にその事が説明された資料があります。

 


ものみの塔20124/15p8p12

16 重大な罪を犯した会衆の成員の中には,「信仰の点で健全に」なるよう「厳しく」戒められる人がいます。(テト 1:13)状況によっては,排斥される場合もあります。与えられる懲らしめは,「それによって訓練された人」にとって,霊的な回復の助けとなってきました。(ヘブ 12:11)では,親族や親友が排斥された場合はどうですか。わたしたちの忠節が試されます。排斥された人にではなく,神に忠節を保つでしょうか。エホバは,どんな排斥者とも接触を持ってはならないという命令にわたしたちが従うかどうか,注意深く見ておられます。―コリント第一 5:11‐13を読む。

17 排斥された親族と交わってはならない,というエホバの命令を家族が忠節に守るなら,どんな良い結果になるでしょうか。その点を示す一つの経験を取り上げましょう。ある青年は10年以上排斥されていましたが,その間ずっと,両親も4人の兄弟たちも,その青年との「交友をやめ」ていました。青年は時々,家族の活動に参加しようとしましたが,家族全員が,青年と接触を持つことを断固として拒みました。それは立派なことです。青年は会衆に復帰した後,自分は家族との交わりをいつも懐かしく思い出した,一人だけの夜は特にそうだった,と述べました。また,もし家族が少しでも自分と交わっていたら,そのわずかな交流で自分は満足していただろう,と語りました。家族から 何の連絡もなかったので,家族と一緒にいたいという燃えるような願いを抱くようになりました。それが,エホバとの関係を回復する一つの動機づけになったのです。排斥された親族と交わってはならない,という神の命令を破りそうになったら,この経験を思い出してください。』


 

排斥者、断絶者に対して、家族や親族にはどのような指示があたえられていますか。下記の資料もご覧下さい。

 


王国宣教2002年2月号

親族が排斥されているときクリスチャンとしての忠節を示す

1 家族のきずなには非常に強いものがあります。それでクリスチャンにとって,配偶者や子供,親,その他の近親者が会衆から排斥されたり断絶したりすることは試みとなります。(マタ10:37)忠節なクリスチャンは,そのような親族にどう接するべきですか。その親族が一緒に住んでいる場合には,何かの違いが生じるでしょうか。まず,聖書がこの問題について述べている事柄,つまり排斥された人にも断絶した人にも当てはまる原則を振り返ってみましょう。

2 追放された人にどのように接しますか: 神の言葉は,クリスチャンが会衆から追放された人と交際や交友を続けないように命じて,こう述べています。だれであれ「兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように……その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」。(コリ一5:1113)マタイ 1817節に記録されている,「[追放された]人を,あなたにとって,諸国民の者また収税人のような者としなさい」というイエスの言葉もこの点に関係しています。イエスの言葉を聞いた人たちは,当時のユダヤ人が異邦人といっさい親交を持たず,収税人を部外者として遠ざけていたことをよく知っていました。それでイエスは追随者たちに,追放された人と交わらないようにと教えていたのです。―「ものみの塔」誌,19811115日号,17‐19ページをご覧ください。

3 これは,忠節なクリスチャンは,だれであれ会衆から追放された人と霊的な交友を持たない,という意味です。しかし,それ以上のことも関係しています。神の言葉は,「そのような人とは共に食事をすることさえしないように」と述べています。(コリ一5:11)それでわたしたちは,追放された人との親ぼくのための交友も避けます。それには,その人を加えてピクニックに行ったり,パーティーを開いたり,球技をしたり,ショッピングや劇場に出かけたり,家であれレストランであれ一緒に座って食事をしたりすることも含まれるでしょう。

4 排斥された人と話すことはどうでしょうか。聖書は,生じ得るあらゆる状況を取り上げているわけではありません。しかしヨハネ第二 10節は,エホバがこの問題をどう見ておられるかを知る助けになります。そこには,「この教えを携えないであなた方のところにやって来る人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません」とあります。この聖句について,「ものみの塔」誌,19811115日号,24ページには次のような注解が載せられています。「『こんにちは』という簡単なあいさつがきっかけとなって会話に発展したり,場合によっては友情に発展したりすることがあるものです。わたしたちは排斥された人に対し,そのようなきっかけを作りたいと思うでしょうか」。

5 まさに「ものみの塔」誌の同じ号の30ページに述べられているとおりです。「事実からすれば,クリスチャンが罪にふけって排斥を余儀なくされる時,その人は本当に多くのものを失います。神のみ前における是認された立場,……以前クリスチャンの親族との間で保たれていた多くの交わりを含め,兄弟たちとの喜ばしい交友などを失うのです」。

6 同居している場合: それでは,排斥された家族の成員と同じ家に住んでいるクリスチャンは,話しかけたり,共に食事をしたり,日常的な活動の際に交わったりすることを避けなければならないのでしょうか。「ものみの塔」誌,1991415日号,22ページにある脚注はこう述べています。「もしクリスチャンの家族の中に排斥された親族がいるとしたら,その人は従来どおり,普通の日常的な家の仕事や活動に携わるでしょう」。それで,食事その他の家族としての活動の際,排斥されている家族の成員をどの程度までそれに含めるかの決定は,その家族にまかされるでしょう。とはいえ,排斥前と何も変わっていないかの印象を,交わっている兄弟たちに与えたくはないでしょう。

7 「ものみの塔」誌,19811115日号,27ページには,排斥されたり断絶したりした人についてこう述べられています。「以前存在していた霊的なきずなは完全に断ち切られました。この点は,すぐ身近にいる家族を含め,その親族に関しても真実です。……これは,家庭内に存在していたであろう霊的な交友に変化が生じることを意味します。例えば,夫が排斥された場合,家族の聖書研究をその夫が司会したり,聖書朗読や祈りで指導したりすると,妻や子供たちは気持ちよくありません。排斥された人が食事の時などに祈りをしたいと思えば,自宅でなら祈る権利はあります。しかし妻や子供たちは声を出さずに自分で神に祈りをささげることができます。(箴 28:9。詩 119:145146)家族が聖書を一緒に読んだり,聖書研究をしたりする時に,家庭内にいる排斥された人が出席することを望むならどうですか。家族を教えようとしたり,宗教的な考えを述べようとしたりしない限り,出席して耳を傾けることは許されるでしょう」。

8 家に住んでいる未成年の子供が排斥された場合でも,クリスチャンの親は依然としてその子供を育てる責任を負っています。「ものみの塔」誌,19881115日号,20ページにはこう述べられています。「親は子供に衣食住を備え続けるのと同じように,神の言葉に調和した教えと懲らしめを与える必要があります。(箴言6:20‐22; 29:17)たとえ子供が排斥されたとしても,愛ある親はそのようにして,子供との家庭聖書研究を取り決めることができます。恐らくその子供は,親と自分一人との研究から,矯正のための最も優れた益を得ることになるでしょう。あるいは,親のほうで,子供を今後も家族研究の取り決めに参加させるという決定を下すかもしれません」。―「ものみの塔」誌,2001101日号,1617ページもご覧ください。

9 一緒に住んでいない親族: 「もし排斥された者,あるいは自ら関係を断絶した者が,一緒に暮らしている家族ではなく,別に生活している親族であるなら,事情は異なります」と,「ものみの塔」誌,1988415日号,28ページは述べています。「その親族とはほとんど接触せずにすむかもしれません。たとえ家族の何かの事柄で接触しなければならないとしても……そういうことは最小限に保たれるに違いありません」とも述べています。これは,悔い改めずに罪をおかしている人がいれば,だれであれ『交友をやめる』ようにという神の命令と調和しています。(コリ一5:11)忠節なクリスチャンはそうした親族との不必要な交わりを避け,仕事上の接触も全く最小限にとどめる努力を払うべきです。―「ものみの塔」誌,19811115日号,2829ページもご覧ください。

10 「ものみの塔」誌は,生じ得る別の状況に注意を向けてこう述べています。「では家にいない息子や親などの肉親が排斥され,その結果家に帰ることを願っている場合はどうですか。家族は状況に応じ,どうすべきかを決定することができます。例えば,排斥された親は病気で,経済的にも身体的にも自活できない状態にあるかもしれません。クリスチャンである子供には,親の面倒を見る聖書的また道義的責任があります。(テモテ第一 5:8……どうするかは,親が本当に必要としている事柄や親の態度,家の者の霊的福祉に対する家族の頭の心遣いなどによって決まるでしょう」。―「ものみの塔」誌,19811115日号,2728ページ。

11 子供についても同じ記事はこう述べています。「クリスチャンの親が,身体的に,あるいは感情的に病気になった排斥された子供をしばらくの間家に戻すこともあります。しかし親は必ずその子の状況を慎重に考慮します。排斥された息子は自活してきたでしょうか。今はそれができないでしょうか。本人が戻りたがっているのは,主に,その方が生活が楽だからですか。本人の品行や態度はどうですか。家庭内に『パン種』を持ち込むことになりますか。―ガラテア 5:9」。

12 エホバに忠節であることの益: 悔い改めない悪行者を排斥して遠ざけるという聖書的な取り決めに協力することには益があります。そうすることによって,会衆の清さが保たれます。わたしたちは聖書の高い道徳規準を擁護する者として際立つことになります。(ペテ一1:14‐16)腐敗をもたらす影響力から守られます。(ガラ 5:7‐9)また,悪行者は受けた懲らしめから十分に益を得る機会を与えられ,「平和な実,すなわち義」を生み出すよう助けられるかもしれません。―ヘブ12:11

13 ある兄弟とその妹は巡回大会での話を聞いて,6年前に排斥された同居していない母親との接し方を変える必要があることに気づきました。大会のすぐ後,兄弟は母親に電話をかけ,自分たちが母親を愛しているとはっきり述べてから,連絡の必要な家族に関する重要な事柄でなければもう話しかけることはできないと説明しました。間もなく母親は集会に出席するようになり,最終的に復帰しました。また,未信者の夫も研究を始め,やがてバプテスマを受けました。

14 聖書に記されている排斥の取り決めを忠節に擁護することによって,わたしたちはエホバへの愛を実証し,エホバを嘲弄している者に返答できます。(箴 27:11)そして,わたしたちはエホバの祝福があることを確信できます。ダビデ王がエホバについて述べているとおりです。『その法令については,わたしはそれからそれることはないからだ。忠節な者には,あなたは忠節をもって行動されます』。―サム二22:2326


 

家族や親族であっても接触は最低限であるべきこと、成人していて健康上の深刻な問題がなく、自活できる者は共に家に住むことを許さないほうが良い事が述べられています。


 

この点、組織内で「長老や奉仕の僕、開拓者といった立場を有している人は、排斥者、断絶者を家に住まわせている場合はその資格を再考慮されることがあります」と他の信者が参加出来ない特別な集まりで口頭にて伝えられたこともあります。

 


2010121日付の長老団宛の手紙にはこのように書かれていました。


 

排斥されている親族とかかわる任命されている人の資格について

 

親愛なる兄弟たち、

 

聖書は会衆から追放された人と交友をもたないようにとわたしたちに語っています。(コリ一 5:9-13; ヨハ二 9-11) 長老、奉仕の僕、そして正規開拓者は排斥された家族の成員の扱いについて模範を示すべきです。(神の愛 207-209ページ) もしそのような任命された立場の人が、排斥された身近な家族の成員が自分の家に転居してくることを許す場合、長老団にはどのような責任があるでしょうか?

 

長老団はそのような状況を許す任命されている人の資格を再検討するべきです。(88 3/1 24ページ 5; 81 9/15 29ページ 16-17) 排斥されている親族は身体的あるいは感情的な病気で自活ができない状況かもしれません。あるいは差し迫った状況が存在し、それゆえに助けを与えないと悲惨な結果が起きるかもしれず、それは会衆に非難をもたらすことになるかもしれません。

・・・・・(続く)

 

 


また、2016年に行われたエホバの証人の地区大会で上映されたビデオでは、出ていった(排斥または断絶した)娘からの電話に出るのは良くないことであるかのような映像が流された。



 

家族の絆は変わりませんと公式サイトでは説明しながら、排斥者または断絶者の家族からの電話に出る事もよくないことだと刷り込んでいるのである。


 

排斥者、断絶者と交流を持っていることを他の信者に知られるなら、その人自身も排斥となってしまう可能性が高く、それはまるで、自分がイジメられることを恐れて自分自身もイジメに加わってしまうようなものだといえる。


 


エホバの証人の公式WEBサイト、jw.orgの中には、エホバの証人ではなくなった人を避けますか?との質問に「避けることはしません」と説明されている部分ある。

 



しかし、これは所謂、伝道活動に参加する事を辞めた不活発者といわれる人は避けないという話に過ぎない。排斥者、断絶者については本人の為と称して集団無視をするのである。

こうした外部に対しての印象操作も誠実であるとは言えない。

 



また、エホバの証人を辞めることは出来ますか?との質問に「はい」と答えているだけで、途中で辞めることによって受けることになる制裁について一切触れられていない説明文が載せられている。

 

 




エホバの証人を辞めることはできますか

 

はい。わたしたちの組織との関係を断つ方法が2つあります。



・正式な申請によって。エホバの証人の一員でいることをやめたいという決定を、口頭あるいは書面で表面することができます。

 


・実際の行動によって。世界的な兄弟関係から退くことを行動で示せます。例えば、別の宗教に加入し、そのまま所属したいという意向を周囲に知らせることもあるでしょう

 


ここで説明されている二種類の組織との関係を断つ方法というのは、断絶という方法、そして排斥となる行動を自ら行なうという方法であるが、エホバの証人を辞める方法は実際にはこの二つの方法しか無いのが現実である。しかし、これらの方法で組織との関係を断とうとしても、実際には厳しく耐え難い制裁を受けることになる。それで、それを実行に移すことは実際には非常に困難なことであり、信教の自由が著しく阻害されている状態といえるのではないだろうか。