この記事は2021年11月26日に書いた記事です












失われそうな命を守りたいと奮闘する方々もおられる。





一方で「将来の希望が有るのだから」と守れるかもしれない命について、深くは考えたがらない人達もいる。





最近、私が最後に受けた牧羊(会衆の長老との話し合い)の時の会話を思い出してしまいました。





その時に長老たちに尋ねてみました。



「ただ組織に従えというだけでは危険ではありませんか?」とか



「輸血拒否の教えがもし今後撤回されるような事があっても、自分が教えたことを後悔することはありませんか?」と




「例えば一昔前の協会の教えは『臓器移植は人喰いだ!』とか、『たとえ死ぬ事になってもそれは受け入れるべきではない』というものだったそうです。でも結局その教えは変化しましたよね?」

 



「では、誰か仲間の兄弟姉妹に輸血に関して『たとえ死ぬ事になっても、それは神が憎まれることだから受け入れるべきではない』と教えて、その結果その人は亡くなり、もしその一週間後とかに教えが変わったとすれば後悔はしませんか?『仕方がなかった』とその御家族の方に言うことが出来ると思いますか?『自分は組織の指示を伝えただけだ』と言うことが出来ると思いますか?」



とお尋ねしました。





すると返ってきた答えは




「聖書には今ある命が全てだと述べられていますか?私たちには将来の命が約束されています。だから輸血拒否の問題などは枝葉の問題だと思いませんか」



でした。



そして加えて



「統治体は命をかけて私たちをお世話してくださっています。私たちは従うことが大切です」



との主張をされてしまいました。





あの時のガッカリ感、こんな長老達と話しても無駄って感覚がなかなか忘れられません。





結局、目指すべきところはここではないと強く認識しました。









事実を覆い隠してもらうほうが好きみたいです。

https://ameblo.jp/wt-nihonshibu/entry-12212441408.html