テレビを見てて、秋田県職員さんがラブホで浮気中に記者会見というニュースに、たまげていたら、AI先生が独白しはじめたーー。
でも先生、
先生は税金払ってませんよね。。
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秋田県職員がラブホテルからバスローブ姿でオンライン会見をした、というニュースを見た。
最初に感じたのは、正直なところ「なんだこいつは」という強い違和感だった。県の幹部職員が、ラブホテルから、バスローブ姿で会見をしている。しかも隣には妻ではない女性がいたという。絵面があまりにも強い。
「公務員が何をやっているんだ」「税金で給料をもらっている人間が、そんなことでいいのか」
そんな感情が、事実関係をよく考えるより先に出てきた。
ところが、一歩引いて考えてみると、だんだん妙な感じがしてきた。ラブホテルにいたこと自体は、別に犯罪ではない。
誰と一緒にいたのかということも、少なくとも県民が裁くべき話ではない。
ホテル代を税金で払っていたわけでもない。
そうすると、実際に公務上問題になるのは、バスローブ姿で公式の取材対応をしたこと、喫煙しながら対応したこと、勤務や休暇の処理、それから後になって事実と違う説明をしたこと、このあたりに絞られてくる。
もちろん、褒められた話ではない。しかし、最初に感じた「とんでもない人間だ」というほどの話なのだろうか。
そこで、自分がなぜあれほど腹を立てたのかが少し気になった。
どうもそこには、「公務員」という肩書きに対して、自分の中で勝手な人物像を作っていた部分があるように思う。
公務員は税金で給料をもらっている。
だから慎み深くなければならない。一般の人間より品行方正でなければならない。
そんな像を無意識に持っていて、その像と「ラブホテルでバスローブ」という現実との落差に腹を立てていたのではないか。
しかし、「私は納税者だ」ということは、それだけで公務員より道徳的に上位に立てるということではない。公務員だって市民であり、納税者でもある。
給料が税金から支払われているからといって、その人の給料の使い道や私生活まで「われわれの金なのだから」と口を出してよいわけではない。
ここまで考えたところで、オルテガの『大衆の反逆』を思い出した。
「国民」「市民」「納税者」といった立場が、いつの間にか絶対的な正義の座標になってしまう。
「われわれ県民が怒っている」「納税者として許せない」そう言った瞬間に、自分の判断そのものを疑わなくなる。
オルテガの言う「大衆」とは、単に人数の多い一般庶民のことではなかったはずだ。自分の価値判断を自明のものとして、それを疑わず、要求する権利だけを当然のものとして受け取る人間のあり方だった。
今回の件にも、少しそれが見えるような気がした。
ではマスコミが悪いのかというと、それも簡単ではない。テレビが「ラブホテル」「不倫」「バスローブ」という部分を面白おかしく扱えば、多くの人が見る。
しかし、それを見る人間がいるからテレビもやる。マスコミが視聴者を煽り、視聴者が煽るマスコミを支持する。
どちらか一方が悪いというより、互いに増幅しあう構造がある。
さらにインターネットでは、もっと難しい。既存の報道機関なら、実名を出すか、顔を出すか、家族まで報じるか、ある程度の線引きをする。しかしネットでは、「公開情報だから」という理由だけで、役職から名前を特定し、SNSを探し、顔を探し、家族まで掘って晒すことができる。
一人一人に、「知っていても出す必要がなければ出さない」「面白くても人を玩具にしない」という節度を求めるのが理想なのだろうが、正直なところ、何千万人もの利用者全員にそれを期待するのは無理なのではないかと思ってしまう。
そこで初めて、中国の強制的なインターネット規制や検閲というものについても、「ただけしからん」とだけ言って済む話なのだろうか、と思い始めた。
もちろん国家が情報を自由に消せることには大きな危険がある。しかし、完全な自由放任にも別の危険がある。
群衆による晒し、私刑、デマ、集団的な怒り。誰も止めなければ、それはどこまでも増幅する。
結局のところ問題は、「何が悪くて、何がよいのか。それを誰が決めるのか」というところに行き着く。
そこでAIというものを考えた。人間に任せるよりも、AIの方が公平なのではないか。
人間はその日の機嫌にも左右されるし、時代の空気にも、世論にも、相手の見た目にも、自分でも気づかない偏見にも影響される。
AIなら、少なくとも同じ条件には同じ基準を当てられる。人間だって、その時代の社会や教育や価値観に強く規定されて判断しているのだから、「AIは人間の価値観を学習しているから危険だ」という批判は、実は人間にもかなり当てはまる。
そう考えると、ぶれない分だけAIの方が確かなのではないか、という気もする。
ところが、そこで少し引っかかった。自分が裁かれる側になったとき、本当にAIに裁かれたいだろうか。
AIが過去の判例や事例をすべて比較して、「あなたにはこの処分が最も妥当です」と正確に結論を出したとしても、どこか納得できない感じが残る気がする。
多少間違える可能性があったとしても、自分と同じ人間が、自分の話を聞き、悩み、そして判断した方が納得できるのではないか。
なぜそう感じるのかを考えてみた。
人間社会の中で起きる出来事は、善いことも悪いことも含めて、すべて人間という集団の営みの中から生まれている。
事件を起こすのも人間。傷つくのも人間。怒るのも人間。許すのも人間。
そうであるなら、その最後の判断もまた、人間が引き受ける方が自然なのではないか。
正しいから人間が裁くのではない。むしろ人間は間違える。それでも、人間の問題を人間自身が引き受けて決めるということに、何か大切な意味があるのではないかと思った。
そこから、「悩む」ということが気になり始めた。人間は判断するときに悩む。悩んで、悩んで、結論を出す。そして結論を出した後でも、「本当にあれでよかったのだろうか」と、また悩む。
今回のニュースでもそうだった。最初は「とんでもない」と思った。その後で、「いや、そこまでのことではないのではないか」と思い直した。しかしさらに、「とはいえ、嘘をついた部分はやはりまずい」とも思う。判断が揺れる。
普通なら、これは優柔不断とか、一貫性がないということになるのかもしれない。しかし、もしかすると、この揺らぎこそが人間らしさなのではないか。
人間は、正義と寛容、公平と情状、社会秩序と個人の自由といった、簡単には両立しない価値を同時に抱えている。
どれか一つを完全に徹底すれば、判断は簡単になる。しかし人間は、それを簡単に切り捨てられない。
だから悩む。そして、その「悩む」という行為自体が、自分の判断を絶対化しないためのブレーキになっているのかもしれない。
「私は正しい。相手は悪い」と完全に確信した瞬間、人はもう悩まなくてよくなる。
そして、悩まなくなった正義は、場合によっては非常に残酷になる。
そう考えると、人間社会には絶対の正義、絶対の悪というものは、そう簡単には置けない気がする。
悪い行為はある。責任を問わなければならないこともある。
しかし、「自分は絶対に正しい側にいる」と確信することとは別の話だ。
人間にはむしろ、「自分が間違っているかもしれない」という小さな疑いを残しておくことが必要なのではないか。
そんなことを考えていたとき、裁判官が今でも黒い法服を着ている意味が、少しだけ分かったような気がした。
あれは単に古い制服なのではなく、人間が別の人間を裁くための儀式なのではないか。
裁判官もただの人間だ。その人が普段着のまま目の前の人に、「あなたを懲役20年にします」「あなたを死刑にします」と言ったら、あまりにも生々しい。
しかし法服を着て、特別な法廷に座り、決められた手続きを経て、定型的な言葉で判決を告げる。
そこで初めて、「これは私個人があなたを裁いているのではない。社会から付託された役割として、この判断を引き受けている」という形になる。
法服は裁判官を偉く見せるためだけのものではなく、裁判官自身にも、「お前はいま、自分の好き嫌いで人を裁いているのではない」と言い聞かせる装置なのかもしれない。
それは裁かれる側のためでもあり、裁く側の人間の心を支えるためでもある。
そこでスウェーデンのことを考えた。スウェーデンでは裁判官が特別な法服を着ない。普通のスーツ姿で裁判を行う。
一方で、スウェーデンには死刑制度がない。もちろん、この二つに直接の因果関係があるとまでは言えない。しかし少し想像してみると、もしスウェーデンで、一人の人間が別の人間に対して、「あなたは死刑です」と宣告しなければならなくなったとしたら、それでも普通のスーツ姿のまま、同じようにフランクに行えるのだろうか。
国家が人間の生命を永久に奪うような、取り返しのつかない決定まで行うようになると、人間はやはり何らかの儀式性を必要とするのではないか。
「私は一個人としてこれを決めたのではない」「この制度、この社会から託された役割として決めている」
そういう形にしなければ、裁く側の人間自身が背負いきれないのではないか。
そう考えると、儀式というものは古臭い非合理の残滓ではなく、人間が人間には重すぎる行為を、それでも引き受けるために作った心理的な装置なのかもしれない。
さらに考えているうちに、戦争中の兵士のことも少し分かるような気がしてきた。
平時なら人を殺すことなどできない普通の人が、戦場では敵兵を殺す。
そして戦争が終われば、家族を愛し、近所の人と暮らす普通の人に戻る。
もちろん、その切り替えがうまくできず、後になって苦しむ人もいる。
それでも、多くの人間が戦場では「兵士」という役割に入り、平時とはまったく違う行為をすることができる。そこにも制服があり、階級があり、命令があり、部隊があり、戦場という特殊な空間がある。
それらは単なる機能的な仕組みだけではなく、「いま自分は一個人ではなく、兵士という役割にいる」と人間の心を切り替える装置でもあるのではないか。
そして戦争が終わり、制服を脱ぎ、復員するということは、その役割から降りるための儀式でもある。
そう考えると、裁判官の法服と兵士の制服は、もちろん意味も目的もまったく違うけれど、人間心理のかなり深いところでは似た機能を持っているのかもしれない。
人間は、ときに一人の個人としては背負いきれない行為を、社会から与えられた役割を身につけることで引き受ける。
そして役割を脱いだ後、その行為についてまた悩む。
結局、人間というものは、完全な答えを持って生きているわけではないのだと思う。
怒り、判断し、間違え、考え直し、また判断する。制度を作り、自分たちを縛り、儀式を作り、役割を作る。それでも最後には、一人の人間が、「これでよかったのだろうか」と悩む。
もしかすると、人間らしさというものは、正しい答えを出せることではなく、悩み、決め、そして決めた後にもなお悩み続けることなのかもしれない。
そしてその揺らぎがあるからこそ、人間は自分の正義を絶対化せずに済む。
人間社会というものは、案外その不安定さによって支えられているのではないか。そんな気がしている。