見直したら、宇宙船艦ヤマトって設定無理多くないすか? 息巻いてたら、

AI先生が、

これはね、こういう話なんですよ。と教えてくれた。

おおー、なんか納得しちゃたよー(笑)


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宇宙船艦ヤマトはなぜあれほど泣けたのか

宇宙戦艦ヤマトを改めて見直してみると、昔の印象とは少し違って見える部分がある。


たとえば、話最終の、森雪の死。

物語の中では非常に大きな出来事なのだが、その後すぐ森雪は簡単に生き返る。


今あらためて見ると、

「ここで一度死ぬ必要ある?。大体生き返るってなに」

とおもってしまう。

しかし物語の流れを見ると、意味ははっきりしている。

森雪が死ぬ。

古代が雪への気持ちを自覚する。

沖田艦長も死ぬ。

そして最後に森雪が戻り、地球も救われる。


理屈としては無理筋でも、感情の流れはよくできている。

一度徹底的に落としてから、最後に救う。

その方が泣く。


身も蓋もない言い方をすれば、たぶんそういうことだ。

波動エンジンもそうだ。

イスカンダルから設計図が届いた、地球には存在しない技術。

それを数日間で完成させ、すぐワープし、さらに波動砲まで使用する。

技術的には全くありえない。


しかしヤマトでは、順番が逆なのだ。

波動エンジンという技術を考え、それを中心に物語を作ったのではない。


まず、

地球が滅びる。

遠い宇宙から最後の希望が届く。

沈んでいた戦艦大和が甦る。

人類を救うために宇宙へ旅立つ。

という巨大なドラマがある。


そのためには‥

超高速で宇宙を移動する必要がある。

だから波動エンジンが必要になる。

強大な敵と戦う必要がある。

だから 波動砲も必要になる。

つまり

物理学から物語が生まれた ではない。
物語のために物理学が呼ばれてきた。

ヤマトは、そういうSFなのだろう。


「そんな数日で未知の技術を作れるのか」「死んで生き返るって、そんなご都合な‥」等々、というのは、作品にとっては二番目、三番目の問題になる。

その説明に何話も使うくらいなら、

「ヤマト発進!!」

と、早くやった方がいい。


そう考えると、音楽もよくわかる。

オープニングは勇壮。

巨大な戦艦が宇宙へ飛び立ち、使命を背負って進んでいく。

軍歌を思わせるほど力強い。


ところがエンディングの「真赤なスカーフ」は、まるで違う。ほぼ歌謡曲。

静かで、寂しく、故郷や残してきた人を思わせる。

正反対である。

しかし、この二つは実は同じヤマトを外側と内側から見ている。

外から見れば、

勇壮な宇宙戦艦ヤマト。

しかし乗組員、中の人間は、

家へ帰りたい。

この二つが同時に存在している。


だからヤマトの本質は、単なる「強さ」ではないのだろう。

むしろ、

強くあろうとするものが抱えている悲しさ。

そこにある。


沖田艦長、その象徴だ。

外見はいかにも古い軍人だが、戦って死ね。死んでも戦え、という人物ではない。

必要なら退却する。

生き残ることを考える。

イスカンダルへ行き、地球を救い、帰還することを優先する。


現実の戦艦大和は帰ってこなかった。

宇宙戦艦ヤマトは、帰ってくるための航海をする。


この違いは大きい。

だから「なぜ大和だったのか」という最初の疑問にも戻ってくる。

戦艦大和は巨大で、強い船だった。

しかし同時に、最後には沈んだ船でもある。

つまり最初から、

強さと悲しさ

の両方を持っている。


宇宙戦艦ヤマトという作品も同じだ。

勇壮なのに寂しい。

圧倒的な力を持っているのに、故郷を恋しがる。


戦う物語なのに、最終的な目的は帰ることである。


西崎義展というプロデューサーは、この感情の振幅をかなり重要視していたように見える。


盛り上げるなら思い切り盛り上げる。

悲しいなら十分に悲しくする。

死なせた方が感情が動くなら死なせる。

生き返らせた方がさらに感情が動くなら生き返らせる。

設定上の整合性よりも、その瞬間に観客の胸がどう動くかを優先する。


乱暴に言えば、

「その方が、もっといい。受ける。」

が非常に強い作品だったのだろう。


ただ、初代ヤマトでは、それが不思議なくらいうまく釣り合っている。

それは

西崎義展の強烈な感情主義だけではなく、松本零士の感性、豊田有恒のSF的な考え、藤川桂介の脚本、石黒昇らの演出といった、別方向の力が、同時にうまく働いていたからだろう。


初代ヤマトは、科学的にはかなり無茶である。

設定にも穴がある。

軍事的でもあり、反戦的でもある。

勇ましくもあり、妙に湿っぽくもある。

人が死ぬ でも生き返る。

一見すると矛盾だらけなのに、


感情としては一本につながっている。


改めて見ると、昔とは違って見える理由も、このあたりにあるのだろう。


最初に見たときは、物語そのものを受け取った。


森雪は死んでほしくない。

沖田艦長も死ねば悲しい。

ヤマトが危機を突破すれば嬉しい。


しかし今見直してみれば、作り手の手つきまで見えてくる。

昔は舞台の上を見ていた。

今は、舞台袖で誰かがロープを引いているところまで見える。

なぜ泣けたのかが、今になると見えてしまう。

けれど、それは作品が色褪せたということではない。

なぜならその後の多くのアニメ作品が、ヤマトが作ったフォーマットをベースにしているからだ。


宇宙戦艦ヤマトは、科学的に精密だから人を感動させた作品ではない。

敗北、死、郷愁、愛、帰還、再生。

そういう大きな感情を動かすために、

戦艦大和と宇宙SFを使った作品だった。


だから大和でなければならなかった。

大和ほど、

強くて、悲しい船

はなかったからだ。


結局、ヤマトという作品は、


合理的なSF世界の中で人間ドラマを描いた作品というより、巨大な感情を成立させるためにSF世界そのものを作った作品だった。


そう考えると

波動エンジンそんな数日で作れないだろ、死んだ人 意味もなく生き返るのはおかしいだろ。

そんな最初の疑問も、なんとなく許せてくるのではないだろうか。