AI先生と話してたらー
こんなん出ました(笑)
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GPSを閉じて、祭りに入る
自分は昔から、「自分の立ち位置」というものを妙に気にするところがある。
といっても、世間から自分がどう見えているか、という話ではない。
何かについて意見が二つに割れているとき、
「自分はどちら側なんだろう」
というより、
「そもそも、この二つの立場を作っている座標そのものは、どこにあるんだろう」
ということが気になってしまう。
ディズニーランドでいえば、みんなが園内地図を広げて、
「ホーンテッドマンションどこー?」
と探している横で、一人GPSを出して、自分とホーンテッドマンションの絶対的な位置関係まで測っているようなものだ。
園内地図は相対的な位置関係を示している。
GPSは、その園内地図そのものを含めて、もっと大きな座標の中で現在地を見る。
たぶん自分は昔から、物事を見るときにこのGPSを使う癖があった。
目の前で大きなイベントが起きても、すぐその中に入っていくより、
「これは今、何が起きているんだろう」
と、一瞬外側から眺めてしまう。
祭りの真ん中にいるのに、祭りそのものを上空から見ているような感覚だ。
これは便利でもある。
人がなぜそう動いているのか。何と何が対立しているのか。その議論自体が、どんな前提の上に成り立っているのか。
少し外へ出ることで見えてくるものは多い。
ただ、このGPSを発揮させすぎると、あまりいいことばかりでもない。
人間関係でも、
「この人はいま、こういう立場だからこう言っているんだろう」
と先に読んでしまう。
何か盛り上がっていても、
「まあ、これはこういう仕組みで盛り上がっているんだよな」
と分かってしまう。
それを続けていると、だんだんペシミスティックになる。
騙されにくくはなるけれど、驚きにくくもなる。
何かが始まった瞬間に、その終わりまで見ようとしてしまう。
そして気がつけば、
訳知り顔をしたまま、人生が自分の上を通り過ぎていく。
それは、どうにも味気ない。
だからこれは後天的に身につけたことなのだと思うが、
目の前に面白いことが起きているなら、思い切りそっちを楽しもう
と思うようになった。
祭りなら、なるべく率先して盛り上がる側へ行く。
もちろん、ちょっと恥ずかしさが先に立つこともある。
周りの温度を読み違えて、
「あれ、まだそこまで盛り上がってなかった?」
と外すこともある(笑)。
でも、外さないようにずっと周囲を測位していたら、いつまでたっても祭りの中には入れない。
そこで気がついたのが、
裏側が見えることと、表側を楽しめないことは別だ
ということだった。
祭りが共同体を維持するための装置だと知っていても、神輿を担げばいい。
ブランドというものが、物そのものの外側に物語や信用を貼り付けたものだと分かっていても、好きな時計はしていい。
ディズニーランドが巨大な演出装置だと分かっていても、ホーンテッドマンションに乗って「おおっ」とやればいい。
仕組みが分かっているからといって、楽しんではいけない理由などない。
むしろ、
「分かってるよ。でも面白いんだよ」
でいいのだと思う。
考えてみれば、人間が「知ること」を進めてきたのも、もともとはよりよく生きるためだったはずだ。
世界を知る。危険を知る。人を知る。自分を知る。
知ることで選択肢を増やし、少しでもよく生きようとした。
それなのに、知ることを進めた結果、
「どうせ全部こういう仕組みだ」
となって、目の前のものを楽しめなくなったのでは、本末転倒である。
生きることは外せない。
知ることは、その生きることを豊かにするためにある。
ならば、知ることが生きることをスポイルし始めたところでは、少し順番を入れ替えた方がいい。
GPSは捨てなくていい。
必要ならいつでも開けばいい。
でも、横から誰かに、
「ほら、行こうよ!」
と手を引かれたら、
「あ、そうだね」
とパチンと閉じて、そっちへ走っていく。
そして思い切り遊んだあとで、
「いやー、面白かった」
と言いながら、またGPSを開く。
「……ところで、あれは何だったんだろうね」
たぶん自分には、そのくらいがちょうどいい。