AI先生っ!
熟成魚ライスって‥何ですか?(笑)
格式伝統へのフリーライドと、「鮨10年不要論」、コスパ・タイパが過ぎること
話のきっかけは、完全予約制の熟成鮨店○○だった
店主は、いわゆる寿司屋での長い修業を経験した職人ではなく、独自に魚の熟成などを研究し、それで評判の店を作っている。
料理そのものが美味しく、客が高く評価していることについては、別に異論はない。むしろ、独自の技術でそこまでのものを作ったのであれば、それは大したものだと思う。
ただ、そこで少し違和感が残る。
もしこれを、
「私は独自に熟成させた魚を使った、新しい“熟成魚ライス”という料理を作りました」
と言うのであれば、すんなり納得できる。
ところが、それを「鮨」と呼ぶ。
「鮨」という言葉には、単に酢飯の上に魚を乗せた料理という以上のものが、すでに大量にくっついている。
長い歴史、江戸前という文化、職人、修業、魚を見る目、カウンター、格式、高級料理としての信用――そういうものを、何世代もの人たちが積み上げてきた。
そこに自分の料理を置き、「鮨」と名乗れば、その蓄積された信用や物語も一緒についてくる。
つまり少し意地悪に言えば、
自分では作っていない「鮨」というブランド価値にフリーライドしている部分があるのではないか。
という違和感。
ただし、これにも例外はある。
世間というのは案外頑固で、まったくの新しい料理を、
「これは熟成魚ライスという新しい食べ物です」
と言って出しても、
「なんだそれ?マズソ」
そもそも誰も相手にしてくれない気がする。
そこで最初は、誰にでも分かる「鮨」という形を借りる。
高級鮨として世の中に入っていき、自分の料理を知ってもらう。
それなら理解できる。
そして十分に評価され、
「あの人の作る、あの料理」
として場所を確保したところで、
「もう鮨という名前を借りる必要はありません。ここは熟成魚ライスの店です」
と看板を掛け替えたなら、むしろ非常に格好いい。
鮨の看板を借りて世に出て、最後にはその看板を返す。
そうなれば「寿司屋で修業しなかった寿司職人」ではなく、
新しい料理を作った人
になる。
だから
今からでも遅くない
是非そうした方がいいですっ(笑)
ここから、ホリエモンなどが以前から言っている、
「寿司職人になるのに10年も修業する必要はない」
という話につながる。
確かに、寿司を握る技術そのものなら、10年も必要ないのかもしれない。
包丁の使い方、酢飯、握り方、魚の処理、衛生管理などを体系化して、学校や動画などを使って効率的に勉強すれば、昔よりはるかに短期間で一定の水準には到達できるだろう。
その意味では、昔ながらの
「最初の何年かは皿洗いだけ」「親方の技は盗んで覚えろ」
という仕組みに、非効率な部分があることも間違いない。
だからといって、
「短期間で店を出せた。だから10年間には意味がなかった」
とはならない。
ここには一段、論理の飛躍がある。
10年間の中には、単純な技術習得とは別のものが含まれている。
仕入れについていく。魚を何年も季節ごとに見る。同じ魚でも、その日の状態が違うことを知る。親方が客を見て何を出すかを見る。失敗する。飽きる。また面白くなる。自分の好みが変わる。
こういったものの中には、マニュアルにすれば一週間で覚えられることもあれば、時間を通過しないと身につきにくいものもある。
もちろん、だから「10年」という数字そのものが神聖なわけではない。
10年間ぼんやり過ごした人より、3年間猛烈に考え続けた人のほうが優れた職人になることだってある。
だから、
10年必要論も乱暴だし、10年不要論も乱暴。
本来問うべきなのは、
その10年間の何が無駄で、何が短縮できて、何が時間そのものによってしか得られないのか。
ということなのだと思う。
ところが、この「10年不要論」を聞いていると、結局いつものコスパ・タイパの話に戻ってしまう。
10年かかるより3年。3年より1年。
早く技術を覚える。早く独立する。早く店を持つ。早く売上を作る。早く稼ぐ。
そして、こういうコスパ・タイパ論をずっと追いかけていくと、かなりの割合で最後は、
「では、どうすれば効率よくお金を手に入れられますか」
という話になってしまう。
ここが、どうにもつまらない。
お金を稼ぐことが悪いという話ではない。
同じ仕事をするなら、無駄な時間や費用を減らすのは当然だし、経営ならコスパを考えなければならない。
問題なのは、
コスパ・タイパという“手段を改善するための物差し”が、いつの間にか人生の“目的を決める物差し”になってしまうこと。
です。
たとえば、
「寿司職人として年収1000万円になるには、何年修業すればよいか」
という問いを立てる。
すると、
「3年で可能です」「いや、1年でできます」
という話になる。
でも、さらにコスパを突き詰めれば、
「寿司職人なんかにならず、もっと儲かる仕事をした方が早いですよ」
となる。
これは論理的には正しい。
でも、そこで寿司の話は全部消えてしまう。
その人がなぜ魚に触りたいのか。なぜ寿司を握りたいのか。なぜ自分の店を持ちたいのか。その途中で何を知るのか。
そういう話が全部、
「最終的にいくらになるのか」
に換算されてしまう。
それでは、人間の営みとしてあまりにも貧しい。
コスパ・タイパが非常に得意なのは、
目的地がすでに決まっている場合
です。
東京から大阪へ行きたい。だったら、どの交通手段が早くて安いかを比較すればいい。
ところが、人間の仕事や人生は、必ずしもそうではない。
歩いている途中で、
「自分が本当に行きたかったのは大阪じゃなかった」
と気づくことがある。
寿司を10年やってみた結果、
「自分が好きなのは握ることではなく、魚そのものだった」
と分かるかもしれない。
あるいは、
「客とカウンター越しに話すことが面白かった」
と気づくかもしれない。
最初に設定した目的そのものが、経験によって変わってしまう。
こういうものには、「最短距離」という概念自体があまり意味を持たない。
山頂に着くだけなら、ヘリコプターで行けばいい。
それを見て、
「登山に8時間もかけるなんてタイパが悪い」
と言うことはできる。
でも登山家が欲しかったものが山頂だけではなかったなら、その議論は最初から噛み合っていない。
そう考えると、「利他」の話も面白く見えてくる。
もし独学で従来の鮨とは違う優れた料理を作ったのなら、それは、
「寿司職人になるための10年間を短縮した」
というより、
「そもそも別の山へ登った」
と考えたほうが自然なのかもしれない。
それは十分に評価できる。
ところが、その人を見て、
「ほら、寿司職人の10年修業なんて不要だった」
と言ってしまうと、
別の道を作った人の存在を使って、従来の道を無意味だったことにしてしまう。
そこに少し無理がある。
結局、この話で気になるのは、
寿司職人に10年必要か、3年でいいか
という数字ではない。
もっと根本にあるのは、
人間の営みを、最終的にどこまで「効率よく換金できるか」という尺度だけで測っていいのか。
ということなのだと思う。
コスパもタイパも便利です。
ただ、それは目的地までの道を選ぶための道具であって、
どこへ行くべきかまで決めてもらうものではない。
まして、
「途中で何を見るか」「何に出会うか」「自分がどう変わるか」
まで無駄として削り始めたら、たしかに効率は良くなる。
でも――
ずいぶん、つまらない人生になりそうです。