うーーん、AI教授の話が高度になりすぎてー、たかが芸能人の話ですよー(T^T)




掴んだ構造が惜しくなるとき 


叶姉妹の収入源について調べていた。長年の謎とされているあれである。 


本人たちの説明はある。三十年以上前から株や為替をやっていて、バブル崩壊のときでも損をしなかった、と。

それ以外の噂については否定している。ただ、芸能人の資産の内訳に公開義務はないから、本人の言葉以上に確かなことは何も分からない。

 分からないまま眺めているうちに、興味が別のところへ移った。 


誰も指摘しない 


もともとは二人とも、別名義のグラビアタレントだった。結成当初は恭子さんの実妹を加えた三人組で、「姉妹」というのは最初から設定である。

本名も旧芸名も、血縁がないことも、調べればすぐ出てくる。

隠されていない。 

なのに、暴露にならない。

 隠していない相手を暴いても商品にならない、というのが一つ。

本人たちが否定も肯定もせずキャラクターを貫いているので突く角度がない、というのも一つ。

だが一番効いているのは、

たぶん読者の側が「本当のところ」を求めていないことだ。暴いたら興ざめする。プロレスのケイフェイに近い。観客は虚構だと知っていて、それでも指摘しない。指摘した人のほうが野暮になる。

虚構を守る側に観客も報道も回ってしまうので、外からは壊れない。 


そういうもんだ 


不思議なのはここからである。

飽きられてもいい。歳を重ねたと言われてもいい。「まだやってるの」でもいい。

いくらでもありそうなのに、そうならない。

いつのまにか居場所ができていて、「そういうもんだ」という根拠のない納得感だけが残っている。十年なら「しつこい」、二十年なら「よく続くな」、三十年になると評価の言葉が尽きて、風景に変わる。

近所にずっとある妙な形の建物と同じで、最初は誰もが不思議がるが、いつのまにか目印になっている。

 許した瞬間なんてどこにもない。だから「なぜ許されているのか」と問うても答えが出ない。


 オタク文化との接続 


美香さんのコスプレが、オタク文化の側から本気で受け入れられている。

あれを冷やかしや話題作りだと思っている人は、あまりいないように見える。一つには、評価軸が違うからだろう。

グラビアは加齢が減点になるが、コスプレは技術と熱量の勝負なので、続けた年数が加点にもなる。

身体を見せる仕事から、キャラクターを媒介にする仕事へ移った、と言ってもいい。

 だがそれ以上に、両者の様式が似ているのだと思う。

何の役にも立たないもの、必要とされていないもの、生活の役に立たないものに、時間と金と人生を注ぎ込む。合理性で説明できない。

周りに理解されなくても続ける。

オタクがキャラクターに捧げるものと、あの二人がセレブという虚構に捧げてきたものは、対象が違うだけで注ぎ方が同じだ。

 どちらも、やめても誰も困らないことをやっている。やめない理由が自分の内側にしかない。だから互いを見たときに、説明のいらない理解が成立するのではないか。 


ここで手が止まった 


——というところまで書いて、気持ちよくなっている自分に気づいた。 

「風景になった」「様式が同じ」。うまいこと言った感じがする。賢くなった気がする。だが、その快感こそが危険信号ではないか。

実態に合っているから納得したのか、形が整っているから納得したのか、内側からは区別がつかない。

 しかもここまでの材料は、ほとんど全部こちらの推測である。裏付けは何もない。

三十年ぶんの選択も失敗も苦労も、「風景になった」の一言で平らにしてしまっている。

人の心の機微を掘るつもりが、機微を潰している。 

構造を見るのをやめれば済む話ではない。個別のまま眺めていても何も言えない。行ったり来たりするしかないのだと思う。

構造で一度掴んで、必ず個別に戻って、掴んだものが実物とズレていないか当ててみる。

ズレていたら構造のほうを捨てる。捨てられるかどうかが、たぶん分かれ目だ。

せっかく綺麗にできた図式は惜しくなる。

惜しくなった時点で、もう対象を観ていない。自分の図式を観ている。


 説明として当てるか、問いとして当てるか 


私は、掴んだ構造を他にも当てはめてみたい人間である。

それ自体は悪くないと思っている。当てはめない人は、事例を一つ紹介して終わってしまう。 

ただ、当てはめ方には二通りある。 

「これもあの構造だ」と説明として当てるか、

「これもあの構造だろうか」と問いとして当てるか。

同じ動作なのに結果が逆になる。前者は対象を材料に変えてしまい、後者ははみ出しを見つけるために当てる。

 判定は簡単で、はみ出しが出たときに嬉しいか、うっとうしいか、である。嬉しければ問いとして当てている。

 叶姉妹で言えば、「忘れられた境界の話だ」で終わらせずに、ここだけは違う、という一点を探すことになる。

あの二人は、誰かが引いた境界の内側にいるのではない。自分たちで境界を作って、そこに自ら閉じこもり続けている。門番と囚人を同時にやっている。 

そのはみ出しのほうが、構造の確認よりずっと面白い。 

ちなみに、生活のために続けているのか、降りられなくなっているのか、それとも本当に捧げているのか。それは外からは分からない。

分からないというより、たぶん単一の答えがない。動機は最初から混合物で、後から振り返って一本の物語にするから、純粋な献身か打算かのどちらかに見えるだけなのだろう。 

その混ざり具合をそのまま残しておくのが、たぶん一番正直な書き方なのだと思う。 


※この記事はAIとの対話をもとに構成しています。