AI先生‥

うーんちょっと難しくなってきちゃったなー‥

と思います。
もうこの話はこれで終わります
まっでも、
こんなクダクダした書き方する人、昔からいるよな(笑)



門番は、自分の中にいる

――都市の境界は、なぜ人を自分から止まらせるのか

都市では、ときどき不思議なことが起きている。

富裕層と貧困層。

古くからの住民と、新しく入ってきた人。

地元の人間と、外から来た人間。

物理的には、ほんの数十メートルしか離れていない。

場合によっては、同じ道を歩いている。

それなのに、暮らしている世界はかなり違う。

なぜ、そんなことが可能なのだろう。

最初は、

「境界があるからだ」

と考えた。

塀がある。

門がある。

学校が違う。

入る店が違う。

服装が違う。

言葉遣いが違う。

紹介がなければ入れない場所もある。

そして、

「ここでは、こうするものだ」

という暗黙の作法もある。

面白いのは、そういう作法には、物理的な強制力がないことである。

たとえば、

「京都では、そういう無粋なことはしないらしい」

と聞く。

すると外から来た人間は、

「そういうものなのか」

と、一歩下がることがある。

別に警察が来るわけではない。

罰金を取られるわけでもない。

門が閉じているわけでもない。

それでも止まる。

なぜ止まるのか。

たぶん、その場所に入りたいからだ。

歓迎されたい。

嫌われたくない。

無作法な人間だと思われたくない。

そこに属したい。

つまり、

中に入りたいという欲望そのものが、境界を守らせている。

これは、ずいぶん効率のいい仕組みである。

門番を置く必要がない。

相手が自分で止まる。

しかし、ここで疑問が出る。

泥棒には、そんなものは効かない。

歓迎されなくても構わない。

嫌われてもいい。

野暮だと思われようが関係ない。

金だけ取れればいい。

そう考えると、境界には大きく二種類あるのではないかと思う。

一つは、

自分で止まる境界。

もう一つは、

止められる境界。

自分で止まる境界には、

礼儀。

評判。

恥。

紹介。

所属意識。

暗黙の了解。

そういったものがある。

全部、越えようとする人間の内側を経由して働く。

「嫌われたくない」

「この場所には入りたい」

「関係を失いたくない」

という気持ちがあるから効く。

反対に、

止められる境界には、

門。

鍵。

壁。

警備。

法律。

警察。

処罰。

がある。

こちらは、本人がどう思っていても働く。

「知ったことか」

と突破する人間には、

最後はこちらが必要になる。

つまり都市の境界は、

文化だけで出来ているわけではない。

物理的な強制だけで出来ているわけでもない。

止まらせる仕組みと、止める仕組み。

その二つを重ねている。

そして、ここで一つ気になることがある。

この境界によって、

誰が得をしているのか。

「相手が自分で止まる」

と言ったが、

止まるのは、たいてい外側の人間である。

内側にいる人間は、その場所に入るたびに遠慮しなくていい。

同じ境界が、

内側の人間には秩序として働き、

外側の人間には拒絶として働く。

内側から見れば、

面倒な説明をしなくて済む。

毎回追い返さなくてもいい。

自分たちの作法を変えなくてもいい。

外側から見れば、

「入りたければ、こちらに合わせてください」

となる。

つまり境界とは、

摩擦を減らす装置であると同時に、

すでに内側にいる側が、自分たちの位置を比較的安く維持する装置

でもある。

しかも巧妙なのは、

その維持コストの一部を、外側の人間自身に払わせることだ。

「ここでは、こういうものです」

と言われた外側の人間が、

自分で服装を変え、

言葉を変え、

態度を変え、

一歩手前で止まる。

壁を高くするより、

ずっと安い。

最も完成した境界とは、

門番がいなくても、

越えようとする人間の中に、門番がいる状態

なのかもしれない。

もちろん、それですべてが止まるわけではない。

だから、その奥には鍵があり、壁があり、法律がある。

ここで、もう一つ不思議なことがある。

異なる人間がこれほど近くに暮らしているのに、

なぜ日常そのものは案外成立しているのか。

近いことは、

必ずしも無防備ということではない。

むしろ、

近いからこそ見られる

こともある。

知らない人が来れば、

「あれ、誰だ?」

となる。

ただし、全員が全員を同じように見ているわけではない。

同じ道を歩いていても、

住民には住民の、

商店には商店の、

学校には学校の、

仕事には仕事のつながりがある。

物理的な空間は共有していても、見る目のネットワークは別々に走っている。

だから、隣に住んでいても遠い。

何キロ離れていても、同じ学校、同じ仕事、同じ仲間なら近い。

都市における距離は、

メートルだけでは測れない。

都市は、

空間を離せないから、

社会的な距離をつくった

とも言える。

塀。

学校。

職業。

服装。

言葉。

店。

紹介。

礼儀。

評判。

そういったものを重ねて、

近くにいる人間を、

遠くにする。

しかし、この境界は固定されているわけではない。

土地の値段が変わる。

仕事が変わる。

交通が変わる。

人口が変わる。

新しい資本が入ってくる。

若い世代が古い作法を無視する。

すると、境界そのものが動き始める。

昔は入れなかった場所に、新しい住民が入る。

商店が変わる。

街の言葉が変わる。

そして時には、

それまで内側にいた人間が、今度は外へ押し出される。

これは単に、

「街は変わるものだ」

という話ではない。

それまで、

「ここにいて当然だった人」

が、

いつの間にか、

「ここにはいられない人」

になる。

つまり境界が動くということは、

誰が内側にいる資格を持つのかが、書き換えられる

ということでもある。

昨日まで境界を守っていた側が、

明日は境界の外に立たされることもある。

境界というものは、

ただ人を分ける線なのではない。

誰がその場所を使えるか。

誰の作法が標準になるか。

誰が説明する側で、

誰が合わせる側になるか。

そういう位置関係まで決めている。

だから、

「誰でも内側になったり外側になったりする」

と簡単に言ってしまうのも違う。

もちろん、人は場所によって内側にも外側にもなる。

しかし、

すべての境界が同じ重さではない。

趣味の集まりなら、

居心地が悪ければ帰ればいい。

しかし、

住む場所。

教育。

仕事。

所得。

そういったものに関わる境界は、

「嫌なら別のところへ行けばいい」

では済まない。

出入りしやすい境界と、

人生をかなり左右する境界がある。

そして、その出入りの自由そのものが、

皆に同じように与えられているわけでもない。

そこは、忘れてはいけないと思う。

その上で、

自分のことを考える。

私はきっと、

いろいろな場所で自分から止まっている。

「ここは、こういう場所だから」

「これは、こういうものだから」

「知らない人間が入るところではなさそうだから」

誰かに止められたわけでもないのに、

勝手に一歩下がっている。

それ自体が悪いわけではない。

そうした遠慮や作法があるから、

毎回ぶつからずに済んでいることも多い。

ただ、反対に、

自分が内側にいる場所ではどうだろう。

誰かが入口で一歩止まっていることに、

私は気づいているだろうか。

「ここでは、こういうものだから」

と、

自分にとって都合のいい作法を、

ただ昔からの常識だと思ってはいないだろうか。

しかも、その相手は、

私に追い返されたわけではない。

自分で止まっている。

だから私は、

何もしていないように見える。

都市には、

見えない境界がある。

他人の境界を眺めていると、

ずいぶんよく見える。

あそこには壁がある。

ここには階層がある。

あの世界は閉鎖的だ。

ところが、

自分の足元を見ると、

こちらにも、ちゃんと門がある。

しかも厄介なことに、

その門の前に立っている門番が、

自分だったりする。