AI先生が 現代を切る (笑)
きっかけは、
昔は歌手や俳優が「モテる」職業の代表だったのに、今はお笑いの人がその位置にいる、
という素朴な疑問だった。この違いは何なのか。
まず見えてきたのは、憧れの方向そのものが変わったということだ。歌手や俳優への憧れは、自分より上にいる存在に近づきたいという垂直方向のものだった。
一方お笑いの人への支持は、一緒に笑ってくれる存在への親近感、つまり水平方向の共感に基づいている。憧れの対象が「見上げる存在」から「隣にいる存在」へと移った、ということだ。
では、なぜ今の若い世代とお笑いの相性がいいのか。
若い世代はコスパ・タイパを重視すると言われるが、笑いは本来「無駄」なものにも見える。しかしよく考えると、笑いは短時間で完結し、蓄積せず、その場で消費されて消えていく。つまり「短期かつ刹那的な消費」であり、これがコスパタイパ的な生活リズムとぴったり合う。
ただし、この刹那性は繰り返すと飽きが来るという弱さも伴っている。
この刹那的な生き方を選ぶ背景には、二つの異なる心理があると考えられる。
一つは「頑張れば報われる」という物語への不信、いわば「んなわけないじゃん」という感覚だ。
もう一つは、頑張っても外部要因で土台ごと崩されるという不確実性への防御、「お盆をひっくり返される」という懸念である。
前者は物語そのものへの懐疑であり、後者は世界の不安定さへの現実的な計算だ。動機は違うが、どちらも「積み上げない」という同じ選択に行き着いてしまう。
ここで、議論の前提そのものを問い直す必要が出てくる。「積み上げれば報われる」も「積み上げても報われない」も、どちらも積み上げを実利のための手段として扱っている点では同じ土俵に立っている。
そうではなく、積み上げは何かを得るための手段ではなく、生きている実感そのものを構成する行為なのではないか。
咀嚼という言葉が示す通り、噛んで味わう過程そのものに経験の厚みが宿る。栄養だけを取り出せばいいなら点滴で済むが、咀嚼という過程を経ることこそが、生きるということの内容になる。
刹那的消費が本当に失っているのは実利ではなく、この過程の厚みなのだ。
ただし、この結論を「生きるとはこういうことだ」と言い切ってしまうと、説教くさく、押し付けがましく響いてしまう。
読者は「また大人が正しさを説いてくる」と身構えやすい。
だからこそ、断定する前に自分自身が実利軸で迷った過程を先に見せる、あるいは断定した直後に自分でそれを軽く相対化してみせる、という語り口が有効になる。
お笑い人気という日常的な現象から出発し、実利ではなく充実を軸にした生き方の意味へとたどり着く——
それが、ここまでの対話の流れだった。