「高性能」が正義とは限らない


――昭和の商品から、人間社会の曖昧さを考える


グラスターゾルのような、昭和からほとんど姿を変えずに残っている商品を見ていると、最初はどうしても「古い技術」「効果の薄い商品」に見える。


現代の商品は、長期間持つ、強く効く、専用性能が高い、といった方向へ進歩しているからだ。


だが考えてみると、商品の価値は必ずしも「性能が高いこと」だけではない。


グラスターゾルなら、汚れを簡単に落とし、ほどほどに艶が出て、手間がかからない。

長期間の強力なコーティングとは違うが、「ちょっときれいにしたい」という用途なら、それで十分なのである。


ここで一つ、自分の中にあった図式に気づいた。


よい商品=性能を上げること。

未来=さらに高性能になること。


だが、これは必ずしも正しくない。


性能を高めれば、施工条件が増えたり、専用品化したり、使う側に知識や手間を要求するようになる。

一方で、性能をほどほどに抑えることで、簡単に、広く、失敗なく使える商品もある。


昭和には、こういう商品が多かった。


キンカン、オロナイン、赤チン、メンターム。

どれも「何かあったら、とりあえずこれ」という家庭の万能選手だった。


現代から見ると、かなり大雑把である。


しかしそれは単に技術が未熟だったからではない。


昔は、専門家に行く前に家庭で何とかする社会だった。

一つの商品をいろいろな用途に使い、人間の側が加減する。


現代は逆に、症状や用途を細かく分類し、それぞれに最適化された専用品を使う社会になった。


つまり、


昔は、一つの道具を人間が加減して広く使う社会。

今は、用途を細分化し、それぞれに最適化された道具を使う社会。


どちらが正しいのか。


ここから人間そのものを考えると、少し面白い問題が出てくる。


人間は、本来それほど精密ではない。


感情も、関係性も、状況判断も、「ここから完全にアウト」「ここまでは完全にセーフ」ときれいに分けられるものではない。


ところが現代社会は、さまざまな問題を細分化し、明確な線を引こうとする。


セクハラ、パワハラなどもそうだ。


もちろん、暴力や強制、立場を利用した圧力など、明確に禁止すべき領域はある。

昔のように「まあまあ」「それくらい我慢しろ」で弱い側に負担を押しつける社会に戻るべきではない。


だがその反対に、人間関係のすべてを細かいルールで分類しようとすると、別の問題が起こる。


冗談なのか侮辱なのか。

配慮不足なのか悪意なのか。

一度の失言なのか継続的な圧力なのか。


このあたりには、どうしても曖昧な領域が存在する。


そこで必要なのは、グレーゾーンを「何をしても許される場所」として肯定することではない。


むしろ、


すぐに白黒を決めず、対話し、修正し、必要なら判断を変えるための緩衝帯


として残しておくことなのだと思う。


グレーゾーンを積極的に礼賛する必要はない。

しかし、その存在そのものを否定してしまうのも危険だ。


人間は曖昧だから、曖昧な問題が存在することは避けられない。


それを無理にすべて明確化しようとすると、


「では大きな被害とはどこからか」

「軽微とはどこまでか」

「不快とはどの程度か」


と、線を引くためにまた別の線が必要になる。


そして線を精密にすればするほど、現実の人間から離れていくことがある。


だから必要なのは、「完璧な線」を探すことではないのかもしれない。


明確に禁止すべきところは明確にする。

しかし判断の難しい領域には幅を残す。

そして間違えたときには修正できるようにする。


それくらいの仕組みの方が、人間には合っているのではないか。


商品でも同じだ。


最高性能を常に使う必要はない。


普段は簡単に、ほどほどに。

必要なときだけ、精密に。


社会も同じなのかもしれない。


最適化しすぎない。

細分化しすぎない。

しかし、本当に必要なところでは精密にする。


そしてもう一つ。


曖昧さを礼賛しない。

しかし、曖昧さを敵視もしない。


昭和の古い万能商品を眺めていたら、ずいぶん大きな話になった。


でも案外、グラスターゾル一本の中にも、

人間にとって「ちょうどいい」とは何なのか、という問題が入っていたのかもしれない。