「観ること」と「かけがえのなさ」
人は知覚を通して世界を認識する以上、「心地よい音」は物理量だけではなく、人間との関係の中で生まれる。
という言葉を考えながら、私は「主観を捨てて対象を見る」のではなく、自分の主観を自覚したうえで対象と向き合うことが大切ではないかと考えた。
それは考えることから逃げるためではなく、思考を固めず、自由に保ち続けるための、自分なりの方法なのかもしれない。
オーディオの話から、「良い音とは何か」という問いが始まった。
周波数特性や歪率、SN比といった測定値は重要だが、それだけでは「良い音」は決まらない。
そこから話は、「美とは何か」という問いへつながった。
小林秀雄の「美しい花がある。花の美しさというものはない。」
さらに青山二郎の話になり、「美」を語ることが権威や立場を生む時代があったこと、そして植草甚一のように「教える」のではなく、「世界を面白がる」人への共感へと話は広がった。
その流れの中で、自分は固い話になると、つい冗談を言いたくなることにも気づいた。
そして最後に、AIとの対話について考えた。
AIとは「問いの地図」を一緒に描くことはできる。
しかし、同じ有限の時間を生きる存在ではない。だからこそ、人間同士の対話には、「この人としか共有できない時間」があり、それが「かけがえのなさ」なのだと気づいた。
AIと話したからこそ、人と話すことの価値を改めて発見した。
問いはAIとも描ける。人生は人としか描けない。
そんなことを考えた一日だった。