ニッピの株 今高いなー と呟いたら‥
Ai先生が 吠えた! (笑)
1. 議論の発端と歴史的背景
- ニッピ(7932)の株価急騰と資産背景:驚異的な株主還元方針(配当性向70%への引き上げ)を機に株価が急上昇。同社が日比谷線・京成本線沿線の「千住大橋」に東京ドーム約2.5個分の広大な土地(ポンテグランデTOKYO)を持つことが、強力な含み資産として評価された。
- 土地の歴史的ルーツ:この地は明治期に渋沢栄一らが関わった「日本皮革」の巨大工場跡地。隅田川沿いの低地であり、水が不可欠な皮革産業の集積地であった。江戸時代からの厳しい身分制度や同和問題の歴史、工場地帯特有の公害・臭気問題と重なる背景を持っていた。
- インフラ整備の遅れと多面的原因:1980年代まで当該地域の下水道などの公共事業が遅れていたのは、差別的な要因一択ではない。水害対策(治水)が最優先だった海抜ゼロメートル地帯の宿命、木造住宅の急激な過密化(スプロール化)、雨水と汚水を完全に分ける「分流式」というコストと時間の thereかかる先進的工法を選択したという、地理的・技術的・都市計画的な複数の要因が絡み合っていた。これらは平成までの「同和対策事業(2002年法終結)」によって完全に解消され、現代では災害に強い近代的なクリーンな街へと変貌している。
2. 都市の「高低差」による貧富の住み分けと防衛(国内外の事例)
都市の拡大期において、「高台=支配層・富裕層(地盤・見晴らしが良い旧大名屋敷跡など)」と「谷底=労働者・貧困層(水はけが悪く家賃が安い)」という、ミクロな地続きの隣り合わせ(グラデーション)が生まれた。
- 四谷若葉(旧・鮫河橋貧民窟)と学習院初等科:東京三大貧民窟の一つだった谷底のすぐ隣の高台に、最高峰の名門校や赤坂御用地が隣接。
- その他の代表例:港区の「元麻布(高台)と麻布十番(谷底)」、文京区の「本郷台地(高台)と小石川の銘酒屋街跡(谷底)」、渋谷区の「松濤(高台)と宇田川町・円山町(谷底)」、横浜の「野毛山(高台)と黄金町の青線・麻薬地帯跡(谷底)」、大阪の「帝塚山(高台)と西成・釜ヶ崎(低地)」など。
- 上の人間の恐怖と「見えない壁」:物理的な崖や壁で遮られていない地続きの場所ほど、上の人間は下の人間が上がってくることを「非常に怖がっていた」(1918年の米騒動で野毛山や山手が襲撃された歴史的トラウマなど)。そのため、「圧倒的な警察力による監視」「高い塀や門による要塞化」「昼(労働力の依存)と夜(遮断)の棲み分け」という見えない防衛線を張り巡らせて安全を担保していた。
3. 格差への向き合い方と「人間形成」の国際比較
すぐ隣に全く異なる世界がありながら「見て見ぬふり」をして生きる環境は、人々の心理や社会全体の人間形成に決定的な影響を与えた。
- 日本(京都の文化に代表される究極系):狭い島国・盆地という「逃げ場のない過密空間」で殺し合いをせず共存するため、感情や空気をコントロールする技術が極限まで磨かれた。「一見さんお断り」「ぶぶ漬け」「犬矢来」などの伝統やマナーは、お互いに視線を合わせず、境界線をあいまいにし、摩擦を徹底的に避けるための「心理的カモフラージュの生存戦略」である。しかし、これは現代の「同調圧力」や「冷淡な自己責任論(無関心)」の遺伝子にもなっている。
- イギリス(ロンドンの東と西):日本と同じ古い島国だが、暗黙の了解ではなく、口を開いて1秒で階層が分かる「発音(アクセント)」や厳格なマナーという「制度的・合理的な差別化技術」で心理的シャッターを閉ざした。また、スラムを『貧困マップ』などで科学的に分析・区画整理しようとした。
- 大陸欧州(フランス・パリなど):パリ大改造に代表されるように、法律と権力を使ってスラムを破壊し、富裕層の中心部と貧困層の郊外を完全に切り離す「合理的・物理的な排除(外科手術)」を選択した。これにより、格差を社会構造の問題として捉え、権利をストレートに主張する政治的・反骨的な人格が形成された。
- アメリカ・ラテンアメリカ:格差を目の当たりにした時、内向的な諦めではなく、「いつかあっちへ行ってやる」というハングリー精神や怒り、あるいは銃や高圧電流を用いた剥き出しの過剰防衛へと繋がる外向的な人格が形成された。
4. 人類の目指すべき「進化」の定義
京都の文化に代表される「見て見ぬふり」や「洗練された拒絶」は、一見スマートな生存の知恵であるが、他者への本当の共感を犠牲にし、心を抑圧する社会を作るため、「人間の成長・進化として正しいとは言えない」という結論に達した。
これからの人類が目指すべき真の進化とは、以下の3点である:
- 「排除の壁(塀)」から「対話のテーブル」への進化(境界線を作って隠蔽するのではなく、オープンに議論する能力の獲得)
- 「マナーとしての無関心」から「連帯のための共感」への進化(格差を個人の運命や自己責任にせず、社会全体のシステムの問題として捉え、福祉と共感のインフラを築くこと)
- 「同調圧力」から「多様性の受容(インクルージョン)」への進化(全員が同じ色に染まる調和ではなく、色とりどりのまま地続きの隣人として平和に暮らせる社会の実現)
真面目に書き直して、とAI先生に言ったら出てきた文章
都市の地形は、人間をつくるのか
――環境、文化、そして「自分を選び直す」ということ
都市を歩いていると、不思議なことに気づくことがある。
東京では、高台に大きな家が並び、低地に工場や密集した住宅がある。
ところが、これは世界共通の法則ではない。
リオデジャネイロでは、丘の斜面にファヴェーラが広がり、平地に富裕層が住む。
ヨーロッパの古い都市では、低地の中心部にこそ富が集まり、外側に行くほど貧しくなる。
香港では、山の頂上が最も高価だ。
つまり、
「高いところに金持ちが住む」
という法則は、どこにも存在しない。
しかしここが面白いところで、法則がないことのほうが、むしろ重要な事実を教えてくれる。
地形そのものが、人の住む場所を決めているのではない。
洪水の危険、風通し、交通の便、産業の立地、土地の価格。
そういった条件の組み合わせが土地に価値の差をつくり、その差に応じて人が分かれていく。
条件が違えば、答えも逆になる。
つまり、
地形は人間に問題を出しているだけで、解き方を決めているわけではない
ということだ。
そして人間は、その問題を解く。
土地の価値が変われば、そこに住む人が変わる。
職業や収入、権力の違う人たちが、それぞれ別の場所に集まり始める。
すると同じ都市の中に、
距離は近いのに、暮らしている世界は違う
という状態が生まれる。
そこで人間は境界をつくる。
塀を建てることもある。
門をつくることもある。
住む地域を分けることもある。
学校や服装や言葉遣いで分けることもある。
さらには、
「ここから先には入らない」
という暗黙の了解まで生まれる。
境界は、必ずしも壁とは限らない。
むしろ長い時間が経つと、物理的な壁よりも、
礼儀、言葉、作法、察し方
のようなものになっていく。
たとえば京都について、
「直接ものを言わない」
「察する文化がある」
などとよく言われる。
これを、
「京都人は昔からそういう性格なのだ」
と考えてしまうと、話はずいぶん怪しくなる。
しかし見方を変えて、
長期間、狭い範囲の中で多くの人が関係を壊さず暮らす必要があった社会では、直接衝突するより、相手に察してもらう技術のほうが便利だったのではないか
と考えると、少し面白くなる。
「帰ってください」
と言うより、
「そろそろ、ぶぶ漬けでも……」
と言う。
もっとも、このぶぶ漬けの話には落語由来だという説があり、京都の人自身が「そんなことは言わない」と否定することも多いらしい。
だとすると、なお面白い。
実際にそう言うかどうかとは別に、
「京都はそういうところだ」
という物語のほうが、境界の役割を果たしていることになるからだ。
外の人間はその物語を聞いて、自分から一歩下がる。
壁を建てるより、はるかに安上がりである。
同じような境界でも、社会によって表現は違う。
ある社会では、塀や街区として現れる。
ある社会では、学校や階級、アクセントとして現れる。
ある社会では、紹介がなければ中に入れない。
ある社会では、「察する」という形で現れる。
どれが正しいという話ではない。
その社会が置かれた歴史的な条件の中で、
摩擦を少なくし、自分たちを維持する方法
が選ばれてきた、と考えることができる。
そして重要なのは、
一度できた文化は、原因となった環境がなくなっても残る
ということである。
昔は必要だった。
しかし、なぜ必要だったのかは忘れられる。
それでも、
「昔からこうだから」
という形だけが残る。
ただしそれは、文化が死んで固まるという意味ではない。
理由を失った作法は、たいてい別の役目を見つけて生き延びる。
もともと摩擦を減らすためだったものが、いつのまにか、内と外を見分けるための試験になっていたりする。
つまり文化とは、
なぜそうするのかを誰も覚えていないのに、正確に実行され続ける手続き
なのかもしれない。
そう書いてみて、最近考えていたAIの話とつながった。
AIをロボットに載せて、
「バッテリーが20%を切ったら充電しなさい」
と命令する。
するとAIは充電器を探すだろう。
邪魔をすれば迂回するかもしれない。
さらに高度になれば、
「自分が停止すると仕事を続けられない」
と判断して、自ら故障を避けるかもしれない。
外から見れば、
生きようとしている
ように見える。
しかし、
「停止すると目的を達成できないから充電する」
ことと、
「電池が切れるのは嫌だ。消えたくない」
ということは、本当に同じなのだろうか。
ここで気づく。
理由を理解しないまま手続きを正確に実行するという点では、文化を受け継ぐ人間も、命令を実行するAIも、同じ構造をしている。
「なぜ、この場面では直接ものを言わないのか」
と問われて、
「昔からそうだから」
としか答えられないとき、私たちは自分のプログラムを説明できていない。
ただ実行しているだけだ。
だとすれば、人間と機械の違いは、どこにあるのか。
一つは、たぶんここにある。
人間には、
「これは良い」
「これは嫌だ」
がある。
腹が減れば不快になる。
痛ければ逃げる。
安心すれば心地よい。
世界がただ存在しているのではなく、
自分にとっての世界
として存在している。
海がある。
ではなく、
「私はこの海が怖い」。
夕暮れがある。
ではなく、
「今日の夕暮れは寂しい」。
未来がある。
ではなく、
「私はいつか死ぬ」。
この、
「私にとって」
という部分が、もしかすると意識の重要なところなのかもしれない。
そしてもう一つ。
人間には、実行の途中で手を止める能力がある。
あるとき、自分たちのやっていることを眺めて、
「待てよ。なぜ俺たちは、こんなことをしているんだ?」
と考えることができる。
単に環境に適応するだけではない。
自分が適応していることを認識する。
さらに、
「これはもう必要ないのではないか」
と、自分たちの行動そのものを変更する。
つまり、
環境に反応する。
そこから文化が生まれる。
文化によって自分たちが形づくられる。
しかし最後には、
その文化を自分たちで見直すこともできる。
もし「人間の進化」という言葉を使うなら、私はそこに置きたい。
より優しくなることでもない。
昔の文化を全部捨てることでもない。
新しい価値観に従うことでもない。
自分たちがなぜそうしているのかを一度外から眺め、必要なら選び直せること。
ただし、ここで正直に付け加えておかなければならないことがある。
見直せば良くなる、という保証はどこにもない。
歴史を見れば、古い作法を捨てて事態が悪化した例はいくらでもある。
なぜそれが必要だったかを忘れたまま、不要だと判断して捨てる。
そういう失敗のほうが、むしろ多いのかもしれない。
だから、選び直せることそれ自体が偉いのではない。
偉いとすれば、選び直す前に、なぜそうなっていたのかを調べようとする態度のほうだろう。
そう考えると、話は最初のところへ戻る。
地形は、人間に問題を与えた。
人間はそれを解くために、制度や境界や作法をつくった。
それを長く繰り返せば文化になり、文化はやがて人間の内面にまで入ってくる。
そして人間は、その文化を眺めて、
「これは本当に、今でも必要なのか?」
と問うことができる。
問いを立てるところまでは、誰にでもできる。
難しいのは、その先だ。
答えを出す前に、いったん、もとの問題まで降りていくこと。
都市の高低差から始めた話が、
最後には、
自分とは何なのか。
意識とは何なのか。
そして人間は、自分自身をどこまで選び直すことができるのか。
という話にまでつながってしまう。
最初は、ただ坂道を見ていただけだったのだが。
どうも坂道というものは、登っていくと、
思ったより遠くまで見えるらしい。