ふ
「公衆」「大衆」の違い
先ほどの「社会契約論とパルチザン(党派)」の文脈とも深くつながっています。SNSという空間では、かつての新聞やテレビの時代とは異なる「新しい大衆のあり方」が生まれており、それが社会の共通規範(社会契約)を揺るがしています 。 [1, 2]
このテーマを考える上で、重要な4つの論点を提示します。
1. 「分断されたパルチザン」としての大衆
かつての「大衆(マス)」は、テレビや新聞から同じ情報を一斉に受け取る「地続きの巨大な塊」でした。しかしSNSの時代における大衆は、一見ばらばらのようでいて、特定の思想ごとに鋭利に組織化された集団(パルチザン) として立ち上がります 。 [1, 2, 3, 4]
- エコーチェンバー現象: アルゴリズムにより、
自分と似た意見ばかりがタイムラインに流れるため、 特定の党派性が異常に強化されます。 - 「一般意志」の崩壊: ルソーが恐れた「部分社会(党派)」
がSNS上で無限に増殖している状態です。社会全体の利益( [1, 2, 3]一般意志)を考えるのではなく、「自分たちの界隈の利益と正義」 だけを突き詰める大衆が形成されます。
2. 理性を失う「ネット群衆」の心理
19世紀の心理学者ギュスターヴ・ル・ボンは著作『群衆心理』で、「人は集団(群衆)になると理性を失い、暗示にかかりやすくなり、過激化する」と説きました。SNSはこの「群衆化」を24時間いつでも引き起こす装置となっています。 [1, 2]
- 匿名性と責任の分散: 個人としては冷静な人でも、SNSで「大衆の一員」
になった瞬間、リプライやリポスト(拡散) [1, 2]を通じて特定のターゲットへの攻撃に加担してしまいます。 - 感情(怒り・不安)の伝染: SNSでは論理的な正しさよりも、
瞬間的な怒りや正義感といった「感情的なナラティブ(物語)」 [1, 2]のほうが爆発的に拡散(バズ)しやすく、 大衆を容易に動かします。
3. ポピュリズム(大衆迎合)政治との結合
- 直接民主主義のバグ: 政治家が中間組織(政党や議会)を飛び越え、
SNSを通じて大衆に直接語りかけることで、 [1, 2]熱狂的な支持を集めるモデルです。 - ショート動画による単純化: 複雑な政策論争は嫌われ、15秒〜
1分のショート動画で表現できる「 [1, 2, 3]敵と味方のわかりやすい二項対立」が大衆に消費されます。 これは社会契約が前提とする「理性的で熟議する市民」 の姿とは対極にあります。
4. 哲学者オルテガが予言した「大衆の反逆」の現在地
- SNSは誰もが発信者になれるため、一見「個人の多様化」
が進んだように見えます。しかし実際には、「 [1, 2]みんなが叩いているから叩く」「トレンド(流行)に合わせる」 といった、オルテガのいう『考えることをやめた大衆』が、 テクノロジーによって肥大化した姿 とも言えます。
「公衆」「大衆」の違い
政治学や社会学において、「公衆(Public)」と「大衆(Mass/Crowd)」 は明確に区別されます。
結論から言うと、現代のSNS空間におさいて「公衆」は極めて存在しにくくなっており、「大衆」や「パルチザン(党派)」に圧倒されている状態 にあります。
この危機的な現状を、公衆の定義、SNSの構造、そしてオルテガの思想から解き明かします。
1. そもそも「公衆」と「大衆」の違いとは?
社会学者ハーバート・ブルーマーらは、この2つを以下のように区別しました。
- 公衆(パブリック): 共通の課題に対し、異なる意見を持つ人々が「議論(熟議)」を通
じて合意形成を目指す理性的集団。 - 大衆(マス): 共通の関心(感情やエンタメ)に対し、個々人が「一方向的・
感情的」 に反応する、批判精神のない集団。
SNSに「公衆」が存在するかという問いに対しては、「機能としては存在するが、構造的に大衆化・パルチザン化されやすい」 というのが現代の定説です。
2. オルテガの思想における「公衆」の位置づけ
哲学者オルテガ・イ・ガセットの代表作『大衆の反逆』において、実は「公衆」という言葉はポジティブな意味ではほとんど登場しません。オルテガの時代(20世紀前半)の新聞や世論(Public opinion)は、すでに「大衆の意見」へと変質していたからです。
オルテガの理論から「公衆」の位置づけを読み解くと、以下のようになります。
- 大衆に圧殺される「本来の公衆」:
オルテガは、社会をリードすべき「優れた少数者(貴族精神を持つ人々)」と、それに従うべき「大衆」 に分けました。彼にとって、理性的で法やルールを尊重し、 他者の意見に耳を傾ける「本来あるべき公衆(市民)」の領域は、 現代において『大衆の反逆』によって完全に占拠されてしまった と考えます。 - 「多数派という暴力」への変質:
オルテガは、大衆が「公衆(世論)」の名を借りて、自分たちと異なる思想やマイノリティを排除し、社会を均一化( [1]同質化)していくプロセスを強く批判しました。
3. SNSのなかで「公衆」が存在しえない3つの理由
SNSが始まった当初(Web2.0の黎明期)は、「誰もが議論に参加できる、新しい『公衆の広場(公共圏)』になる」と期待されていました。しかし、現在のSNSは「公衆」を消滅させる構造になっています。
- ① 熟議(ディスカッション)の不在:
公衆が成立するには「他者の意見を聴き、自分の考えを変える可能性(熟議)」が必要です。しかしSNS( 特にXなど)は短文と拡散がメインであり、対話ではなく「 自分の正しさを主張し、敵を論破する(パルチザン化)」 ための場所になっています。 - ② アルゴリズムによる「私事化(パーソナル化)」:
公衆は「みんなで共通の課題(公)」を議論する場です。しかしSNSのタイムラインは個人の趣味嗜好に合わせて最適化さ れるため、社会全体で共有される「公の議題」 そのものが分断されています。 - ③ 感情の市場(アテンション・エコノミー):
SNSのビジネスモデルは、人々の「怒り」や「不満」といった大衆的感情を刺激して滞在時間を延ばすものです。 理性的・客観的な「公衆の論理」は、刺激的な「大衆の論理」 に勝てません。
結論:SNSに公衆は存在するか?
SNSのなかに公衆は「孤立した点」としては存在します。専門家や理性的な市民が、ファクト(事実)に基づいた議論を試みるコミュニティは確かにあります。
しかし、ひとたびその議論がアルゴリズムの波に乗ると、瞬時に「大衆」や「パルチザン」による感情的なバッシングや党派闘争に巻き込まれ、公衆としての機能(理性的な合意形成)は麻痺 してしまいます。SNSは、オルテガが警告した「大衆の反逆」が、テクノロジーによって最悪の形で完成した空間と言えるかもしれません。
オルテガの視点からの 二つの実例
オルテガの視点(客観的事実の軽視、専門家の視野狭窄、義務の放棄)を踏まえ、
「1. Xのコミュニティノート」と
「2. フランス気候市民会議」の
現代における詳細なメカニズム、
結果、そして直面している限界を解説します。
1、
X(旧Twitter)の「コミュニティノート」:客観性をめぐる党派闘争
コミュニティノートは、オルテガが定義した大衆の性質「自分の見たいものだけを真実とし、客観的事実を無視する」傾向への、システム側からの直接的な対抗策です。
【詳細な仕組み:なぜ多数決ではないのか】
デマを排除する際、単なる「ユーザーの多数決」にすると、数の多い「大衆(マジョリティ)」の意見が勝ってしまいます。これを防ぐため、Xは高度なアルゴリズムを採用しました。
- 架け橋(ブリッジング)アルゴリズム:
ノートが公開されるには、「普段は政治的に全く異なる意見(リポストやいいねの傾向)を持つユーザーたち」の双方が、そのノートを「役に立つ」と評価しなければなりません。 - 党派性の排除:
右派のユーザーだけ、あるいは左派のユーザーだけが「そうだ!」と群がったノートは、どれだけ数が多くても不採用(公開されない)になります。
【オルテガ的視点から見た「結果」と「新たな限界」】
- 大衆の「無謬性(むびゅうせい)」への冷や水:
「自分たちは絶対に正しい」と信じ込むSNSの大衆に対し、「その主張の根拠は誤りです」という公的ファクトがポストの直下に突きつけられるため、一過性の感情的な熱狂を止める強力なブレーキとして機能しています。 - 事実すらも「敵の陰謀」にする大衆(限界):
しかし現在、このシステム自体が大衆の「パルチザン(党派)闘争」の戦場と化しています。- ノートの潰し合い: 特定の党派にとって不都合なファクトが書かれたノートに対し、集団で「役に立たない」という評価を投票し、ノートを非公開に追い込もうとする運動(ゲーミング)が発生しています。
- 主観の肥大化: オルテガは「大衆は客観的な道理を認めない」と書きましたが、現代の大衆はコミュニティノートに書かれたデータや事実そのものを「これは敵側のプロパガンダだ」と解釈し、自らの認知バイアスを守ろうとする泥沼の闘争が続いています
2.
フランス「気候市民会議」:孤立する公衆と、外側の大衆の反逆
マクロン大統領が2019年〜2020年にかけて実施したこの試みは、SNS上の感情的な暴走(黄色いベスト運動)を、「制度化された熟議(公衆)」によって解決しようとした壮大な実験でした。
【詳細な仕組み:大衆を公衆に変えるステップ】
オルテガは、大衆を「自省せず、義務を果たさない者」と批判しました。この会議は、真逆の環境を設計することで大衆を「公衆(理性的市民)」へと変容させました。
- 「特権」ではなく「義務」の付与:
- くじ引き(無作為抽出)で選ばれた普通の市民150名を集めまし
た。彼らに専門家のレクチャー(情報提供)を受けさせ、 数ヶ月かけてじっくりデジタルツールや対面で環境政策を議論( 熟議)させました。 - 結果と課題:
- 成功: 普通の市民であっても、適切な情報と「考える義務」
を与えられれば、SNSの罵り合いからは程遠い、極めて現実的で 高度な政策提言(149項目)をまとめることができる と実証されました。 - 課題: いざその提言をマクロン政権や議会が法制化しようとした際、
会議に参加していない「外側のSNSの大衆」から「 エリート気取りの身内だけのルールだ」 と激しい逆バッシングを受け、多くの提言が骨抜きにされました。 「一部で公衆を作っても、外側の大衆の海に飲み込まれる」 という限界を示しました。
- 成功: 普通の市民であっても、適切な情報と「考える義務」
結論:現代の試行が示すもの
これらの試行から分かるのは、「仕組み(アルゴリズムやルール)を変えれば、人は大衆から公衆(理性的な個人)に戻りうる」 という希望です。
しかし同時に、オルテガが恐れた「義務(考える苦労)を嫌い、権利だけを叫び、自分たちと違うものを憎む大衆の慣習」 の引力は凄まじく、少しでも油断するとあらゆる公衆の場が再び「大衆の遊び場」に塗り替えられてしまうという冷徹な結果も突きつけられています。 [1, 2]
【オルテガ的視点から見た「結果」と「新たな限界」】
- 市民は公衆になりうる(結果):
150名の一般市民は、最終的に「2030年までに温室効果ガスを40% 削減するための149の政策提言」をまとめました。その内容は、 どのプロの政治家や官僚が作るものよりも具体的で、理性的で、 質の高いものでした。 - 「大衆の反逆」による圧殺(限界):
悲劇は、この素晴らしい提言が「会議の外側(SNSと現実社会)」に出たときに起こりました。 - エリート主義という誤解: 会議に参加していない外側の大衆からは、彼らが「
自分たちと同じ普通の市民」であったにもかかわらず、「 マクロンに洗脳された新しいエリート(気取りの集団)」 として映りました。 - 痛みの拒絶: 提言に含まれていた「高速道路の最高速度を110km/
hに制限する」などの具体的な規制に対し、 SNS上で猛烈な大衆のバッシングが発生しました。 オルテガの言う「利便性や権利だけを享受し、 それに伴う犠牲や義務は一切拒絶する大衆」の姿そのものです。 - 政治の妥協: 激しい世論(大衆の怒り)に恐れをなしたマクロン政権は、
結果として149の提言の多くを修正・ 骨抜きにして法制化せざるを得なくなりました。
- エリート主義という誤解: 会議に参加していない外側の大衆からは、彼らが「
2つに共通する現代の結論
これら2つの事例が示しているのは、「適切な環境さえ与えれば、人間は理性的(公衆)になれる」 という事実です。
しかし同時に、「閉じた空間でどれだけ見事な公衆(理性)を作っても、その外側に広がる、考えることを放棄した『SNSの大衆の海』が持つ圧倒的な数と破壊力によって、最終的に押し流されてしまう」 という、オルテガの『大衆の反逆』の警告が、より強固な形で的中しているのが現代の姿です。
フランスの事例が示したのは、「閉じた150人(公衆)」と「外側の数千万人(大衆)」が直接ぶつかると、数が勝ってしまうという問題でした。
- 次世代の設計: 意見をいきなり社会全体に「大拡散」させるのではなく、
最初は小さなコミュニティで議論を熟成させ、 徐々に外側の輪へと広げていく「段階的な議論の場」をデジタル上 に設計します。現在のXのように「 世界中のあらゆるリプライが1箇所に集まって地獄絵図になる」 構造をシステム的に禁止し、 異なるレイヤーで対話がグラデーションのようにつながるインター フェースを作ることが議論されています。
③ 過去の蓄積(歴史・文脈)を強制的に組み込むシステム
オルテガは、大衆の本質を「過去の歴史や文明の恩恵を忘れ、今この瞬間の感情だけで生きる『時間的深みのない存在』」と呼びました。SNSのタイムラインはまさに「今この瞬間の話題」だけが流れる、時間的深みのない構造です。
- 次世代の設計: トレンドや最新のポストだけでなく、
そのテーマに関して過去にどのような議論があり、 どのような失敗や合意があったのかという「歴史的文脈( コンテクスト)」が自動的に可視化・ です。ピン留めされるタイムライン設計 ユーザーが感情的に発言しようとした際、システム側が「 過去の知恵(文明のルール)」を強制的に認知させることで、 大衆を「歴史のバトンを受け取る市民(公衆)」 へと引き戻すアプローチです。
まとめ
オルテガの洞察が現代に突きつけるのは、「『正しさ(ファクト)』や『専門知識』をただネット上に放り込むだけでは、大衆の暴走は止められない。なぜなら、その専門家自身も大衆化しており、大衆は都合の悪い事実を認知しないからだ」 という冷酷な現実です。
だからこそ、私たちは「人間の善意」に期待するのをやめ、テクノロジーの側、つまり「SNSのアルゴリズムやUI(ユーザーインターフェース)の設計そのものを、人間の理性を引き出す形へリビルド(再構築)する」 というエンジニアリング的なアプローチに、唯一の活路を見出そうとしています。