自動車が発明されてから恐らくこの十年程前まで車に皆が求めてきた事は、
単なる移動のアシという範疇を超え自分の身体能力の拡張、歩くのとは全く違うスピードで遠くでもどこでも好きな時に好きに行ける。
言い方を変えると「解放と自由」を手に入れる感覚に近かったんではないかと思う。

20世紀の車は、そんな夢や希望を人間様から勝手に思い込められて発達してきたと考えている。
それが大抵の人の手にはいったその先には、人間のさがでより早い車、立派な車を求めて行く事に。
だからこそ自由と解放の象徴である自分の車を、休みになればせっせと磨き、外付けのオプションパーツで飾り立て、差別化のツールとして自分のは人のよりもっといいんだぜと自慢し、そこに己の存在意義さえ感じてしまう人がいたわけです。

暴走族なんてのはその典型で「マシン」を使って自己拡張感や自由、解放なんてのをスピードや集団暴走の中で自己実現しようとしていたのだと思う。

自己実現は他人に見せびらかすものではなく自分が納得してりゃ良い話で、バカバカしいと言ってしまえばそれまでだが、
その一方で車をA地点からB地点まで移動する為の一手段と位置づけ、便利だけど「借金までして買うのはバカバカしい」それならば借りればいいじゃない?。

ここ数年そう極合理的に考えるとても賢い物知りな若者たちを見るにつれ、先の見えない不況の最中で、小さな幸せにそっと灯をともしながら仲間の中に居心地良さを求めてタオヤカに生きているそんな姿勢よりも、逆にギラギラと危なっかしく青臭くて生意気ないわゆる旧来の若者、の方に魅かれる自分がいるのだった。
まっ人の生き物としての本質が変ったわけではないので、社会が変わればまた人も変るんだろうがーー