先週の木曜日、門前中町へ花見に行った。
町おこしをやっている連中にくっ付いていったんだが、桜はまだ六分咲き。
コタツを出してそこに入りながら風に揺れる桜を眺めて皆と話をする。
自然と話題は震災復興関係の話に、、自分達がやっている事とこれからどうしていくのがより良い未来に繋がるのかなんて話が自然と出てくる。
かといって重い話題に終始する事無く、笑い有りシンミリする話有り素直に楽しい花見になった。
途中帰るはずの人たちも名残惜しいからもうちょっと居よう。なんて言ってくれたりして、人と人の繋がりっていいなと感じるこんな花見は実は初めてだった。
最近この手の、ある意味青臭い話を真剣に人と話すことが多くなった。
大きな流れは変えられない。そんなあきらめムードが衰退し、明らかに未来の行く末が自分達の手の中にある。
そんな実感があることが、ともするとそのような話で口角泡を飛ばすのは恥ずかしいという感覚を吹き飛ばしてくれる。
ニヒリスティックに世間を見ていても「だからナンダヨッ!!」と一喝されればそんな気分がすぐふき飛んでしまうような、そんな東京の今の雰囲気は決して悪くは無いと思う。
できればこのような謙虚な気持ちのまま生活を送りたい。
その意味で「計画停電は是非体験も含めて今夏はやるべきだ。」という近所の床屋の親父さんが言っていた一言に深く同意するのだった。
「喉元過ぎれば~」の例えは人の軽佻浮薄さを皮肉ったというよりも、
忘れて先に進み続けられる人間の強さと、逆に復讐の恨みをあえて薪の上に寝る事の苦痛で忘れなかったという「臥薪嘗胆」に代表される、気持ちを持って継続する事の難しさ、忘却するが故の人の弱さの両方を表している言葉だと思う。(もう勝手にそう思っています。)
ぜひライト臥薪嘗胆とも言うべき事を為政につかさどる方々にはお願いしたい。
しっかし見事なまでに河川敷の桜並木に人が居なかったなーーー。
今年の桜は遅いとはいえ、去年も今年もそしてこれからも、いつもどおりに桜は春になりゃ知らん顔で咲くんだろうに、、
下手な自粛でミソギが済んだような気になるよりも、震災というトラウマをあえて抱えた上でどう生きるのかきちんと考えたほうが良いと思う。