亡父は、戦争中(第二次大戦)学徒動員で、南方に派兵された経験を持っていた。
帰って来たのは戦後数カ月してから。 
復員船で帰ってきたが、以外と帰還が早かったのは終戦時、南方の島で捕虜となっていたからだ。

大学の中途、昭和19年に招集され、小倉の営倉からフィリピンはペナンへと父は送られた。
典型的な陸軍歩兵部隊の例で、戦争末期この頃の出征組は、ほぼ玉砕目的とも思えるような派兵だったようだ。 
父は南方で、幹部試験のこれに受かれば晴れて内地帰還がかなう。というその時に不運にもマラリアでダウン。試験不合格でそのまま南方に留まることになってしまった。

恨みがましく他人の帰還を眺めながら、そのまま南方の島へ進軍。
部隊200名前後の中、劣悪な環境、敵からの攻撃を受け、部隊は四苦八苦。 
父はその矢先、敵の迫撃砲が左足にあたり島のジャングルの中で動けなくなった。
敵だらけのジャングルの中で足を負傷したとなれば、それはもう即、死を意味する。

部隊は父を見捨てて、そのまま進軍していった。

父は足を引きずり、他にも部隊から見捨てられた他部隊の連中となんとか共闘。
ジャングルの中を逃げ回りながら生き延びていたが、
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ある夜、原住民の乗っている船(バンカという)を奪って、数人で数キロ離れた前線基地のある島まで漕ぎだそうと沖に出ようした矢先、後ろから敵の機銃掃射を浴びた。
弾は父の背後から胸にかけて貫通。 父は半死半生の状態まま、船は前線基地に漕ぎだしていった。

いざ、基地があるはずの島に着いても、基地は退転途中で、更にその数キロ先の島に戻るとの事。
撤退用の船はあるものの、父のような下級兵士が乗るような船の場所は無い。
父は、船の甲板につかまりながら、傷口の胸まで海水につかって退転先の島まで行ったのだった。

退転先の島で父の報告を聞いた前線基地の幹部は、父の所属部隊は全滅と聞いていたので、帰還に非常に驚いていたそうだ。
そう、父を残して先に進んでいった部隊は、その先で大掛かりな敵の待ち伏せに会って、全員せん滅してしまっていたのだった。

また島の野戦病院で父を観た医者は、一言
「ああ、(弾は)貫通してるし、塩水で消毒したから、後は良くなるだけだね。 はい次」
という感じだったそうだ。

その夜、野戦病院の床に父が寝ていると、同じ日に入った隣の負傷兵の唸り声がやたらに気味が悪い。
「イヤだなー」と思っていたが、夜も更けると静かになったのでヤレヤレと思って寝る事ができた。朝になってふと隣をみると、もう既に隣の息は無い。夜中のうちに死んでいたようだ。

父はその時、こう悟ったそうだ。
極限状態で、人が生き延びるためには、一体何が必要か?

それは「運」でしかない。

全滅した部隊の連中と 取り残されて生き残った自分。
船に乗れずに逆に傷口を消毒され助かった自分と、同じ病床で死んだ隣の兵士。

彼らと自分との間には、違いはほとんど無い。 ほとんど同じ運命を背負っていたはずだ。
唯一、ほんの些細な選択肢を一つ違えただけで、彼らは死に、自分は生き残った。

「運」があるうちなら、なにやっても大丈夫。
そう復員してきた父は確信したそうだ。

今風に言えば、「生きているのではなく生かされている」なんて表現になりそうだが、
「運」という一言、これもありかもなー。 と思ったりした。
まあ後、人間万事塞翁が馬って奴かな。