イメージ 1

※私生活もか、、、、

キリスト教の先生が書いた本をたまたま読んでいたら、そんな事が書いてあった。

キリスト教は、神という人間を超えた絶対的な存在にその規範を設けている宗教であり、その神の絶対をあらわしいるのは聖書という実在している本にしか無いので、この本の内容のみからしか神の絶対と規範は学べないという内容だったと思う。

で、その聖書から分かる事は、人間は、「神」という、その規範が変わることも無ければ、疑うことも許されない存在を信じ(定義し)て、その存在を絶対的な基準に生きて行きなさい、アーメンということらしい。

なぜなら、規範を 相対的な存在である人間(天皇とか 主君とか)に設定すると、その規範は社会情勢によってどうにでも変質していく。(戦前の「天皇/主君の為に死にましょうとか、、、、) 最初はそうでなくても、周りの情勢によって、相対的な変わってきてしまうので良くないという事なのかな?。

戦前の教育は、日本は、現人神である 天皇が皇紀2600年だかが納めている神の国で、そのシモベは自分達でという話で
まっ これはこれでいいとしても、規範を相対的な存在である天皇にしている為に、時の為政者(この場合軍部)の都合が良いように、その臣民である国民が使われてしまった。

で、このようなことは他国でも良くあることで、あの宗教戦争でさえ、キリスト教と異なる宗教がぶつかったのでは無く、人民をコントロールする為に宗教を利用した時の為政者の意思によって、宗教の名の下に為政者の恣意的な戦争が起こったと書いてある。

つまりこれ等も、絶対的な 神の存在を支点として定めておけば良かったのだし、大体絶対的な規範があれば、そのような争いはそもそも起きないワイ。という事のようだ。(ムズカシイナーー)

で、戦後
この「相対的な存在を規範としてしまった」反省から、徹底的に規範を破壊してきたのが、現代という事になる。

それは 天皇制や家制度はもちろんの事、親を敬う、地域社会を大事にする、他人同士で助け合う、自然を尊敬する、、、その他諸々の物事に対して、規範を持つ事を放棄してしまったのかな。(おそらくその規範をつぶす事に最も熱心だったのは、団塊の世代の人だと思う。)

一方、壊すことに熱心だったあまり、日本人を共通的に貫く基本としての「道徳(規範の上に成り立つもの)」も一緒に放棄してしまったために、今の現代人は、一人一人の心に個別に持っている恣意的な道徳(勝手な思い込みやルール)が主流になってしまい、共通認識が無い為、逆にお互いが理解が出来なくなっているので無いか? 個性の名の下に「何でもアリ」の状況になってしまい、社会的な動物である人間としての、基本的な社会性が失われてしまったのではないか?

というような、解かったような事を、エラソーに考えるに至った。

まじめな人ほど新興宗教にはまったりするのは、こういうことを真剣に悩んでいるからかも知れない。
と考えてると、おのれの不真面目さに安心したりするのだった。

「誰にもメーワクかけてないしーっ」ってパンツ売ってる女子高生に、平手を浴びせて 「駄目なものは駄目だっ!」と激しく言い切れる人になれってことだな、ようは。