イメージ 1

キリスト教では、結構有名な牧師先生とここ数年親しくさせて貰っている。

ひょんなことから知り合ったこのT先生

見た目は温厚そのもので、話し方もイタって無邪気かつ善意そのもの。
感じがいいなーが最初に会った第一印象だったが、

ちょっと話すとその話の内容が、
「あの人は 東京大学をでて、、」
「あの人は、有名な外交官で、、」
「あの人は 銀行の頭取で、大変な業績、、」

と 知り合いの肩書きを嬉々として語る。
「ああっ 出た出た」肩書きをブランド信仰そのもので振り回す発言。
この人は俗物なんだな、所詮世間知らずの牧師なんて、と ちょっと苦々しく思ったもんなんだが、、

あれから数年 実は今ではこの先生をとても尊敬している。
なぜか?


それはこの先生が、相手の肩書きを言う時は
「肩書きは 長年に渡り、より良い人間社会を築くために、粉骨砕身で努力した結果得たもの」
であり
「肩書きを言う事は、相手の今までの人間社会への貢献を称えるという誠意である」
だから、それが仮に市井の人だとしても
「この方は、長年協会の為にがんばってくれている素晴らしい方なんです」
と言う人だということが判ったからだ。

確かに、この牧師先生が相手の肩書きを言うときは、相手に対しての尊敬の念がありありで、こちらがだじろぐ程だった。 
また、その肩書きを持った相手を知っている、という自分のことを誇るのではなく、相手が人間社会の中でよりよい社会を作るために頑張っているという賞賛の思いに終始していた。

それを知ったとき、
「ああ、自分が不快に思っていたのは、自分が他人の肩書きに嫉妬のような眩しさをかんじているからなんだなー」
と深く反省したのだった。

自分は小さいのーーー、、
年上の人と話すのは、自分に気づくという点で非常に有意義だと今では思っている。