【ブログお引越し中】当記事は、別ブログに掲載していたものに加筆修正して移動したものです。(旧ブログでの投稿日:2020.01.12)

 

 

こんにちは。ミニマリスト志望ライターnoneです。

 

上記の通り、当記事は元々運営していた別のブログからの移動記事ですが、

旧ブログでは、こころ方面の記事をたくさん書いていました。

 

40年生きていない私の「どん底」なんて浅いかもしれませんが、それなりに「どん底」を味わい

そんな中で気付いたこと、伝えたいことを記しています。

 

===

 

 

 

 

時々

 

・自分の気持ちにふたをして「なかったこと」にしていないか?

・気付かぬうちに、無理やダメージが蓄積していないか?

 

 

自分に確認する必要が、あると思うのです。

つらくて仕方ないときでも、特に悩んでいる意識がない日常でも。

 

 

そう感じることが、ここ数年の間に何度もあったので、ここに記したいと思います。

 

 

 

「自分の気持ち」には、自分が認識できている部分と、そうでない部分があります。

認識できている部分はおそらく、氷山の一角です。

 

 

悩んでいる意識がないときは、「日常で、何となくいやだけど我慢している」というような、

一見ちょっとしたようなことが積もり積もって膨らんだり、

積もらなくても、自分で思っている以上にダメージを受けていないかどうか?

 

 

つらいときはなおのこと。

つらいときは、無理に感情を抑え込まずに出すべきだと、私は思っています。

 

 

 

しかし、そう意識していても、つらさが限度を超えているときは、まだまだ「ふたの開いていない感情の箱」が心の奥底にある場合があります。

 

 

 

つらすぎると、麻痺してそれが目に入らないこともあります。

 

 

 

気付いていなくても、そこに箱が存在することは変わらないので、

 

後になってその箱が突然爆発するかもしれない。

そこまでいかずとも、その箱を持ち歩き続けることで、原因不明のモヤモヤが晴れなかったりするかもしれません。

 

 

猫との付き合いの長い我が家では、愛猫たちも高齢化しており、

2017年から2020年の4年間、毎年、愛猫を亡くしています。

 

 

4年間の最初、2017年の5月。

愛猫コッぺが亡くなり、自宅に寝かせている頃。

これだけ無理せず感情を出して泣き続けていても、それでも、自分の中にはまだ、

我慢して感情を押し殺している部分があることに気付きました。

 

 

 

家族(=自分以外の人間)がいる(各々泣いてはいても)ので、まだかっこつけて、自分を取り繕っていたのです。

 

 

「自分は右脳人間・感情優位」と思っていましたが、

人間は、社会的ないきものなのだ…と実感する出来事でした。

 

 

 

それに気付いた数時間後は、ちょうど父が家にきてくれるタイミングでした。

 

無理している自分に気付いた私は、父にそのことを話し、父にはその場にいてもらい、布団に入って子供のように眠りました。

 

 

 

父は理解し、何も言わずそこにいて(猫たちと遊んで)待っていてくれました。

ただそれだけのことが、私には本当にありがたかった。

 

 

 

もちろん、つらい気持ちは、泣きまくるだけで、眠り続けるだけで

簡単に癒されるものではありません。

 

 

 

しかしそんな中でも、少しでも自分の気持ちを癒し、少しでもおだやかにいられるように

自分の心の中に、気付いていない、もしくは忘れ去られた箱がないかどうか、時々確認したいものです。

 

 

 

つらいときはどうか、無理をせず、甘えられるときは甘えて、頼れる人がいれば頼って、自分を休ませてあげてください。

 

今つらい、誰かに届きますように。

 

 

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