米田良三氏と本作り中のエピソードです。
第1作は新泉社版『法隆寺は移築された』の知名度の活用に加え、出版の後日談と新たな知見が加味されたことで『続 法隆寺は移築された』と、すぐに決まりました。
第2作は少々悪乗りし『長谷寺も移築された』と提案したのですが最終的には『長谷寺考』に落ち着きました。
現在、建築史学シリーズ(全4冊セット)は何セット作るか迷っている最中です。今しばらくお待ち下さい。
その第4作『柿本人麿の真実』の中に以下の文があり、幻のタイトルの“長谷寺も移築された”ことが述べられています。
初めての方は何のことか全く分からないと思いますが、根性のある方は読んでみて下さい。
理解できず悔しい思いの方は「建築史学シリーズ」に挑戦されてはいかがでしょう。
517年に高さ10メートル余の錫杖(しゃくじょう)を手にした木造十一面観音立像が出来上がる。
大悲殿はその後着手されたと思われるが、全体の施設が完成したのは521年頃と思われる。
日本最古の木造建築と言われる法隆寺は607年創建である。
さらに80年以上古い木造建築が現在の奈良の長谷寺の大悲閣と言うことになる。
経蔵と鐘楼が江戸時代に京都知恩院に移築されている。
また、三門は奈良の長谷寺に移築されている。
これらは創建長谷寺の建築であり、奈良帝(いわい)と人麿の作品と言える。
ちなみに経蔵は46.4尺角(46.4 × 0.303 = 14.05メートル)のお堂である。
人麿が用いた物差しは1尺 = 0.281メートルの倭尺で14.05 ÷ 0.281 = 50尺角のお堂を建てたのだ。
十一面観音(神功王后)の脇侍は難蛇龍王の倭武王と雨宝童子の奈良帝という親子三人であることは言うまでもない。
この建設の為に、奈良の帝と柿本人麿は足繁く奈良の京(吉野ヶ里あたり)から泊瀬(佐賀県三瀬村あたり)に通われた。
奈良の帝は現代で言う建築家であり、人麿は木工頭、つまり建築技術の長であり、パートナーである。