現在の 天神 辺りです。
『現代を解く・長谷寺考』前書きの途中です。
‟古代、博多は海の中だった”と今まで聞いたことがありますか?
‟立ち読み”はまだまだ続きます。
当時の博多湾の海域は現在より広く、入江の先端は内陸深く、大橋、老司、井尻が囲む三角部分まで伸びていた。
大雨のたびに、那珂川と御笠川の流域に降った雨は博多湾に流れ、洪水となり、博多(難波津)の生活を襲っていた。
大鷦鷯尊は難波津を都とし、高津の宮(現博多駅辺)に居られたため対策が必須であった。
洪水を防ぐために那珂川と御笠川の水量をコントロールできる調整池としての内海を、入江を区切って造る工事である。
当時は海の中であった長浜と沖の浜に堰堤が造られ、出来町辺に堀江が掘られ、御笠川の流れが内海に導かれる(この内容は『日本書紀』の仁徳天皇の条に場所を大阪に替えて記されている)。
そして外港となる難波浦が造られた。
難波と呼ばれた海流の流れの激しい、水深四十メートルの海(『福岡地盤図』から復元。
『続 法隆寺は移築された』21.ビジュアルな資料を求めて 参照)に堰堤を造るには、巨大な石を積む以外に方法はない。
阿蘇山の麓から巨石を切り出し、陸と海を運び、所定の位置に沈める。
恐ろしく高度な技術が必要であるが、それを成し遂げたのである。
その技術の延長として石造文化が花開くが、知る人がいないのが現状である。
この石造文化に関しては第三部で少し触れる。
次回(前書きの続き)をお楽しみに!