「米田建築史学シリーズ」全4冊  Web de “立ち読み” (その11) | 民営文化センター

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民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

                                      現在の 天神 辺りです。

 

『現代を解く・長谷寺考』前書きの途中です。

 

‟古代、博多は海の中だったと今まで聞いたことがありますか?

 

‟立ち読み”はまだまだ続きます。

 

 

大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)は 広開土王即位の八年前の383年に博多湾に一大海洋土木工事を始めている。

 

当時の博多湾の海域は現在より広く、入江の先端は内陸深く、大橋、老司、井尻が囲む三角部分まで伸びていた。

 

大雨のたびに、那珂川と御笠川の流域に降った雨は博多湾に流れ、洪水となり、博多(難波津)の生活を襲っていた。

 

大鷦鷯尊は難波津を都とし、高津の宮(現博多駅辺)に居られたため対策が必須であった。

 

洪水を防ぐために那珂川と御笠川の水量をコントロールできる調整池としての内海を、入江を区切って造る工事である。

 

当時は海の中であった長浜と沖の浜に堰堤が造られ、出来町辺に堀江が掘られ、御笠川の流れが内海に導かれる(この内容は『日本書紀』の仁徳天皇の条に場所を大阪に替えて記されている)。

 

そして外港となる難波浦が造られた。

 

難波と呼ばれた海流の流れの激しい、水深四十メートルの海(『福岡地盤図』から復元。

 

『続 法隆寺は移築された』21.ビジュアルな資料を求めて 参照)に堰堤を造るには、巨大な石を積む以外に方法はない。

 

阿蘇山の麓から巨石を切り出し、陸と海を運び、所定の位置に沈める。

 

恐ろしく高度な技術が必要であるが、それを成し遂げたのである。

 

その技術の延長として石造文化が花開くが、知る人がいないのが現状である。

 

この石造文化に関しては第三部で少し触れる。

 

                         次回(前書きの続き)をお楽しみに!