「長谷寺本堂調査報告書」を読むと “おとぎ話的歴史” の理由が解かる | 民営文化センター

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民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

奈良文化財研究所のHPに「調査報告書」のサマリーを見つけました。

 

  まずは全文を読んでください。

           飛ばしてもらっても構いません。

 

 引用

長谷寺本堂の調査

 

この調査は、昨年33日の倒木で破損した屋根の修理を契機とし、その足場を利用し実施しました。

 

考古・史料の研究員の協力を得て、屋瓦や棟札や、指図、文献史料などを調査し、『重要文化財 長谷寺本堂調査報告書』を刊行しました。

 

文献によれば、本堂は天文5年(1536)に焼失し、同7年には像高 10m余の現本尊が造られました。

 

それを覆う本堂は、大和郡山城に入った豊臣秀長によって天正16年(1588)に再興されました。

 

その後、被災記事がないにもかかわらず、慶長12年(1607)の上棟など、本堂の造営記事が散見します。

 

現本堂は、棟札から慶安3年(1650)の供養が明らかなため、秀長の建てた本堂を骨格として、慶安3年に完成したのが現本堂と考えられてきたのです。

 

しかし調査の結果、増改築を示す痕跡はほとんどなく、まったくの新築であることが判明しました。

 

また、細部意匠を他の同時期の建築と比較すると、現本堂の年代は慶安年間頃に編年できます。

 

棟札によれば、現本堂の造営には、将軍・徳川家光の援助を得て工匠には当時の天皇の御所造営をおこなった精鋭たちが招集されたことがわかります。

 

筆頭棟梁と思われる今奥和泉守は、現在の東寺五重塔の棟梁でもありました。

 

すると、天正 16 年に豊臣秀長が建てた本堂の材料は、現本堂には使われなかったことになります。

 

豊臣家造営の本堂がわずか50 年ほどで傷むとは考えられず、この造営には建築的問題とは別の、何らかの社会的な理由が潜んでいると思われます。

 

なお、調査成果の一部は、飛鳥資料館の企画展「豊山長谷寺本堂」(平成 16 8 6 日~ 31 日)で公表し、棟札や指図、新出の文献史料など、本堂の写真をまじえて展示・解説しました。

      (飛鳥藤原宮跡発掘調査部 箱崎和久)

引用終わり

 

 

次に、この記事から年表的部分(緑色文字)を抜き出し、私のコメント(カッコ内)を加えます。

 

天文 5年(1536)本堂(創建以来7回火災に会っていると言う伝説に続く最後の)焼失

 

同 7年 (1538) 現本尊が造られる(現本尊と言うが、戦国の世であれだけの金箔が手に入るのか? あのレベルの仏像はオリジナル以外有り得ない。その後、像は仮堂で雨露を凌いだのか?

 

天正16年(1588)本堂 豊臣秀長によって再興(戦国の世では本格的な本堂再建は無理であろう

 

慶長12年(1607)上棟など、本堂の造営記事(時間的に前後の繋がりが無く、実態が感じられない工事

 

慶安 3年(1650)現本堂完成(秀長の建てた本堂を骨格として)(前々回の部材が残っていた?

 

調査の結果、まったくの新築であることが判明(そこまで言い切ってよいのか? 研究所が“まったくの新築”と言う結論を出した、というのですが、報告書の写真をチラッと眺めただけでも、そうではない場面が認められることから、現代の調査体制も信用できません。即ち、昔の古文書・伝説は言わずもがな、長谷寺に関する調査は全く信用できない。

 

終わりの方で、研究員自身が「この造営には建築的問題とは別の、何らかの社会的な理由が潜んでいる」と、“オウンゴール的”コメントを発していますが、長谷寺の歴史には何か国家規模の大きな秘密が隠されていて、嘘に嘘を重ねた挙句、身動きが取れなくなっている状態にあるのではないでしょうか。

 

真っ先に浮かぶのが、長谷寺の本堂が法隆寺より古い木造建築であり、倭国の時代、佐賀県に在った建物を現在地へ移築した、という説の存在です。

 

このサマリーを読んで思うのは、研究者の面々が本気で真実を追究しようとする迫力が全然伝わって来ない点です。

 

上記の“オウンゴール的”コメントが学会の旧体制に対する反乱の狼煙であれば非常に喜ばしいのですが。

 

 

本音とか、真意が知りたいところです。