長谷寺の本堂が観光案内にあるような江戸時代の創建でないことは既にこのブログでも述べています。
有名な舞台に面した一見、無塗装の古びた柱群の表面は単純に風化したとは思えない、何となく水洗い後のような部分が散見されます。
堂内に多数の額が不自然なほど見事に隙間無く吊り下げられていたり、堂外にも飾られていたり、どちらも見られては困る(消し切れなかった)ものを隠している印象です。
何故そう判断するかと言うと、内々陣の観音像の回りの柱には緻密な図形を交えた絵が描かれているので、そのような一貫性のない設計デザインはありえない話です。
観音様の後ろの板壁に描かれている二十五菩薩来迎図の優美さは倭国の時代、創建時のものに違いなく、本来なら美術の教科書に載ってもおかしくありません。
本堂の完成は520年ですので、この絵は法隆寺(移築前は観世音寺)金堂の壁画より古いのです。
ついでに言うと、大和平野・飛鳥の高松塚古墳の高麗調の壁画よりも勿論古いのです。
コロナ騒ぎが終わったら、本当の日本最古の木造建築・長谷寺を見に行こう。
本堂と三門は佐賀県三瀬村から観音像とともに移築されています。
法隆寺が如何にも古びて見えるのは、移築の際、部材が20年近く野晒しになっていたからです。
以上は米田良三氏と私の共同研究による、今の所“仮説”です。