今後「 倭国長谷寺三瀬説(米田・渡辺)」と呼んで欲しい | 民営文化センター

民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

 

 米田良三著『逆賊磐井は国父倭薈だ』(新泉社「長谷寺」の章で「倭国長谷寺」の所在地は佐賀県神埼郡三瀬村と見当付けられていますが、それ以上のことは著者も分かっていませんでした。

 

 

 一読者である私が米田氏の新しい原稿を書籍化する経緯について、此処では繰り返しませんが、

 

 

その後、二人で現地調査を行い、確認したうえで『現代を解く 長谷寺考』を自費出版し、詳細に倭国長谷寺の全貌を報告しました。

 

 

  建築学会や歴史学会に論文を発表したわけではないので、先陣・業績争いではインパクトが弱いかなと思いましたが、

 

 

さすが、既に大御所である米田氏の説だけあって、古代史の大物ブロガーである古川清久氏彼の説を引用していますので、認知度は今後上がるものと期待します。

 

 

 三瀬村の「宿」を「椿市」と同定するなど、共同研究者としての貢献度を自負する私としては今後「倭国長谷寺三瀬説(米田・渡辺)」と表記されることを切に望みます。

 

 

 「本業で芽が出なかったので・・・」というのが本音です。

 

 

 それにしても、アカデミズムの皆さんは気の毒です。

 

 

 倭国九州王朝説は絶対に認めてはならないので、新しい、面白い仮説を生み出すチャンスは永遠に巡って参りません。

 

 

 諸君「楽しいですか?」

 

「楽しくない」 ← ここをクリック!