11月29日の中日新聞です。
いささか興奮気味の報道ですが、あのあたりで土塁が発見されたところで、驚く程のことではありません。
2013年に発行された米田良三 著『東アジアの悲劇』で以下のように述べています。
引用
〈次頁の地図Yは明治三十三年陸軍測量の地図の上に鏡山 猛 原画の筑紫の京の条坊(方形部分)を書き加えている。
京の辰巳に丸印を付けた針摺(はりすり)、俗明院(ぞくみょういん)地区があり、丸印に喜撰法師の住む宇治山が含まれると考えるのである。
Y図は卑弥呼の女王国であり、その後の筑紫国である。
水城の位置に北西の城壁があり、関所である逢坂の関があった。
南東には長い城壁が図のように伸びていた(矢印)と考えられる。
朝倉街道にも、原田(はるだ)にも関所があったと思われる。
城壁と山稜に囲まれており、筑紫国は要塞となっている。
要塞の中で水色に塗った部分が淀であり、難波(現在の博多)への水上交通の起点となっている。
図中左下に斜線を施した部分が本来の宇治川水系であり、お茶の栽培が行われたことが推定できる。宇治川の水の清さ、豊富さは明らかである。〉
つまり、大宰府の守りのために北だけでなく南にも防御壁が必要だったということで、米田氏はその存在のみならず、その存在場所も既に指摘していたのです。
この新聞記事の書き換えられるべき定説を指摘しておきます。
1.大宰府は律令政府が九州に置いた出先機関ではなく倭国の首都だった。
2.大野城と後に水城と呼ばれる羅城は白村江以前、既に存在していた。
羅城が国内で見つかっていないのは唐によって破壊されたため、と米田氏は語っていました。
日本のみならず世界を牛耳っている者たちは九州王朝を認めたくないので、説明会で本当のことが話されることは絶対ありません。
またインチキ説明会 でB層考古学マニアはコロリと騙される。