ブラタモリ(博多・福岡編)の誤り  博多古図について | 民営文化センター

民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever





ブラタモリ(博多・福岡編) の番組中、博多古図が紹介され、太閤町割りとその基準線となる現在の大博通りが話題になっていました。



博多古図には多くのバージョン がありますが内容は皆同じです。



倭国の繁栄の記録を後世に残したいと思う人がたくさんいたのでしょう。



番組の中でこの古図が表わす年代に関して米田説からすると首を傾げたくなる内容がありました。



一番重要な点は、冷泉津と呼ばれる那珂川以西は鎌倉時代に ほぼ陸地化して現在の市街地になるのですが、内海として描かれていることです。



御笠川は現在の流れと異なり西方に向かって冷泉津に流れ込んでいます(倭国の時代、土木工事で川の流れを変更した記録がある)。



二つの橋はかなり西寄りにあり冷泉津に面しています。



以上から、古図は倭国の雰囲気がまだ残っている白村江の敗戦以降のものと思われます。



大博通りは秀吉より遥か以前、倭国時代の大道そのもので、古代のマッカーサーこと郭務宗率いる唐の進駐軍がパレードした大通りなのです。



現在の御笠川に架かる石堂大橋と那珂川に架かる西中島橋の間は幅広い水路で御笠川河口と繋がっており難波津 (こちらが本家)と呼ばれる港でした。



地下鉄の祇園駅辺りには当時の御笠川(この辺りは堀江と呼ばれた)に石のアーチ橋が架けられ、その東には高津の宮 がありました。



このように大和朝廷以前の博多は既に江戸に勝るとも劣らぬ大都市だったのですが、番組では“博多駅以西北で二つの川に挟まれた部分が鎌倉時代頃まで砂丘だった”としらばくれています。



砂丘と呼ばれる部分の1層下には倭国時代の街の跡が眠っていると思われます。










倭国九州王朝説を悟られないための番組作りなのでしょう。



同年輩のタモリ氏が“これが教養だっ”とばかりに博学振りを見せてくれますので大好きな番組ですが、



制作が“犬あっち行けー”ですので、これからも注意深く見ていきたいと思います。



燃えよ博多っ子! 



ついでに、「三瀬の諸君は何をしている?!」