法隆寺より以前に佐賀県三瀬村に建てられた長谷寺の本堂です。本堂へはこの東面から入るのですが、九州時代は南北逆に建っていましたので、回廊の終着点は西面でした。
奈良の“ちゅうとん先生”のブログからのコピペです。
インパクトが強烈ですのでリンク
では不十分と考えました。
これだけの文字数で日本の歴史を語りつくす技は、お見事としか言いようがありません。
さすが 灘高~東大です。
2016年3月17日 (木)
歴史として残せない史実は物語で残す
ソ連支配下のモンゴルで、チンギス汗について語ることはご法度でした。
だからモンゴル人は物語として残そうとしたのですが、岡田英弘・宮脇淳子先生がモンゴルの本当の歴史を研究されていて、
その歴史的知識が日本からモンゴルへ逆輸入されたというエピソードをご存知でしょうか?
日本国はソ連コミンテルンが操る大日本帝国陸海軍によって大東亜戦争で滅び、アメリカ共産党分子(GHQ)が操る憲法改正(war guilt information program)によって外交も完全敗北し、
さらに中華人民共和国ペキンテルンが操る日本共産党&自民党親中派(佐藤栄作・田中角栄・竹下登・小沢一郎・野田聖子・二階俊博ら)によって、昭和40年以降の日教組運動・マスコミ乗っ取り赤化で完全に滅んでしまいました。
するとなんと、戦前タブーだった継体天皇の研究が進み、日本国の原型だった倭国・九州王朝が徐々に姿を現してきました。
九州王朝と竹取物語
九州王朝と源氏物語
九州王朝と大和物語
九州王朝と伊勢物語
九州王朝と住吉物語
九州王朝と今昔物語
九州王朝と宇治拾遺物語
近江(淡海)、初瀬寺、観世音寺、石山寺、小倉山、宇治、伊勢、住吉、そして奈良、吉野など、各物語で描かれる時間的・空間的地名の配置が、太宰府近辺の古代北九州に置き換えると、
ぴったしカンカン一致するのでした。京都一円の地名の配置が大きくずれており、歴代の学者大先生たちは首をひねっていたのにもかかわらず。
天武天皇、そして持統天皇検閲の701年大宝律令、そして極め付けが桓武天皇の焚書坑儒によって、九州王朝について語ることはご法度でした。
九州倭国の国教であった阿弥陀仏信仰もご法度でした。
縣犬養三千代、蘇我倉山田石川麻呂はそんな中、ひそかに阿弥陀仏を拝んでいたのです。
宇佐八幡宮近くの小倉山東大寺から阿弥陀大仏の腰から下を奈良東大寺に移し、聖武天皇と行基が腰から上を鋳造して、阿弥陀仏を大毘盧遮那仏と偽り、奈良大仏を建立しました。
薬師寺の阿弥陀仏も、薬師如来と偽り、崇拝されてきました。真実を知りつつも真実を語ることができない人々は、物語という形で、昔の史実をベースに書いたのです。
陽炎のごとく滅びし日本国に生まれた我々ですが、みなさんより一足早く、北九州は私にとって最高のスイーツであり、マイブーム、ロマンあふれる古都なのです。
藤原不比等の国体横領に始まり、藤原の一派・近衛文麿のソ連化工作に滅んでしまった日本国。平安末期から江戸時代にかけて武士が藤原氏に抵抗を示すも、覆水盆に返らず。
そんな日本国を捨て、日本国がなしえなかった夢の実現のために、古き良き倭国の国民として新たに再出発したいと考えるこの頃です。
以前の氏のブログにも優れた論説
があります。
これらは米田説への強烈な援護射撃となっているのは誰の目にも明らかです。
従来からの歴史学者が表舞台から退場するのは意外に早いかもしれません。
昔、流行った“自己批判”とやらをそろそろ準備し始め、生き残りを考えた方がよさそうです。