なんて思っているから、一線を越えられないのかもしれない。
決してシャレじゃない。無だって言うのが嫌いな性格で、ここに書くのもタイトルみたいなことを感じる。
どんなことでもきっちり丁寧にこなす努力が一線を越える一皮むけた自分になれると妙なところで信じ込まされてしまった。
ほんとうに、けぇどぉ頭で思うことと体の動き方はどうも違うようだ。

ペン(。。。今はキーボードだが)が冴えないってやつだろうか?

締め切り+スランプでここに逃げ込んでみました。

読んでいる人、こんなだ分ですみません。タイトルのようなことが頭の真ん中から隅のほうに移ったら冴え冴えの文章を書きますので今しばらくお待ちください。
連載とかで、数ページを書く場合。。。いつも困る。

書き出しだ。

月一の連載の場合、締め切り1週間前までの3週間に書きたいことを頭の中でおぼろげながら作っておく。

ここで、編集に「今月のタイムリミットは何日?」みたいな意味のない質問をする。

そこで、編集との雑談を電話で30分ぐらい。。。そこでの駆け引きで大体の内容が決まる。相談ではない、駆け引きだ。

こんな感じかなぁ。。。。それ面白いですよ。
こんな感じかなぁ。。。。それもっと掘り下げないとわからないっす。
こんな感じかなぁ。。。。もう一回練り直します?

みたいな会話が続く、あまりにも面白くないと。。。。今回はページ数もギリだしスキップしましょうか。。。。なんて提案が出るときもある。

やっぱ、かけひきだ。

で、その30分の駆け引きで書き出しを決めてしまい、自分の緊張感と書く気を上げていく。

ここでの会話と違うものを書いたことは今まで一度もない。

さらに3日前。。。最大10ページぐらいを一晩で書き上げる。ギリまで引きずらないタイプのようだ、私は。

それをさらっと編集に渡して、後は待ち。

いつものことがだが、表題は編集に任せる。。。。なぜかいつもそうしている。
単行本を出すときもサブタイトル、帯については最後まで知らなかったことがあった。

まぁ、彼らはプロだからそこは、それ、ちゃんとやってくれているようだ。
文書を書かない、キーボードをたたかない日本人社会にメールが普及した。

欧米は契約社会、すべて文書で契約を取り交わすところが基本になっている。
欧米はタイプライターの時代からキーボードに慣れ親しんでいる。
特にアメリカは税金の自己申告の国、コンピュータを使った税金の計算を個人ベースで行っている。

これらのどれにも当てはまらない日本にメールが普及した。おかしなものだ。

けど、文書をかけない、日本人がメールを使ってしまったことでトラブルはそこらじゅうで起きている。

丁寧語、敬語を文書でかけない人がぶしつけなメールを送信する。

相手がどういう場面、気持ちの状態で読むかわからないのに、過剰にフレンドリーなメールを送信する。
。。。。相手の虫の居所によっては「俺はこいつとこんなに仲良くないよ、なんか勘違いしていない?」と思われる。

そんなトラブル含みのメールが飛び交っているような気がする。恐ろしいものだ。

しかしながら、携帯のメールはそうではないようだ。。。これは日本のほうが成熟しているようだ。

どこからでも、相手の状況に関係なく、親密なタイムリーなメッセージを携帯のメールでは送信できる。

日々のストレスで疲れている人にとって、親しい人からのメールは、癒され、精神を安定させ、前向きな気持ちにしてくれる。

携帯のメールはそれを実現してくれる。
日常、でも非日常でも親しい人からのメールは心癒されるものだ。

もっと仲良くなりたいなって思う人がいるとき、おはよう、お休みなさいのメールだけでも毎日続けてみるとよい。
距離が縮まる。

ただし、あくまでも”もっと”仲良くの場合。。。。仲良くの状態まではメールに頼らず人間力で持っていく必要があることも理解したいものだ。

この人間力が足りない状態でおはよう、おやすみなさいを続けるとストーかになってしまう。

くれぐれも気をつけよう。
相手の気持ちを知ることができない、はかれない。

そんなときに「あえて言うなら?」と質問する。

そのとき出てくる質問の答えになど、ろくなものがない。

もともと思っていないことを問い詰められてやっと出てきたような答え。

質問された本人もそんなことこれっぽっちも思っていないことが多い、そんな「あえて言うなら?」に対する答えが、その人の本心のようにして情報が伝わっていく。。。。

迷惑な話だ。

こんなやり取り、事象に辟易としている大人たちは、「あえて言うなら?」という質問が出る前に保身のための自論を用意しておく。

その保身用情報で周りが対応していくというのも迷惑な話だ。。。。


好きなんです、近くにいるだけで、肌を合わせているだけで、幸せと思っている。
そんな彼女に対して「俺のどこが好き?」って聞いてしまう男は罪作りだ。
物書きをしていると思うけど、新聞のほうがよっぽど、すごいネタが転がっている。

物書きとしては脚色されていない、誰の手垢もついていない生の出来事を脚色していくことに喜びを感じる。

そういう点でいくと新聞はまだレアに使い。これが、月刊誌、週刊誌になるともう手垢まみれで読む気もしなくなる。

どこかに誰の目にも触れていない、そして、これからも誰の目にも触れない、レアな素材がないものだろうか。。。

それが見つからないから小説家は白日夢を日々書き綴っている。。。。私もその一人だ。