日本の公の組織が一部の宗教、思想、信条のために便宜をはかるのはOKなの?

 

イスラム教に対しては便宜をはかり、学校でハラールの給食を提供しイスラム教ではない子供までもがそれを食べることを強制されたり、日本人が望まない土葬を許可しようとするということは、他の宗教、思想、信条のために日本人は黙って受け入れろということか?

 

 

まさか、イスラム教だけ優遇ではないだろう。

 

国家が特定の宗教だけを優遇するわけにはいかないはずなのだから。

 

ということは、私の思想、信条ではハラールの給食は許されません!という子供にはハラール以外の給食を提供してくれるのでしょうね!

 

そうでないと学校によるイスラム教の強要となり、逆に宗教差別、思想・信条差別になる。

 

やがて、憲法違反を問われるなど、様々な問題に発展しそうですな。

 

 

 

同センターは今後も定期的にハラール給食を提供する予定。またビーガン(完全菜食主義者)など多様な食文化に対応する献立についても検討する。

 

・・・、日本人が宗教にあまり関心が無いことや、自己主張しないことをいいことに、子供のうちから様々な宗教や思想の主張に無抵抗で従うよう洗脳しようとしているの?

 

完全菜食主義者なんて、宗教以上に個人的な思想・信条、趣味と言ってもいいくらいのものでしょうに、好きでもない歌手のライブに付き合わされる、興味の無い美術館に付き合わされる、絶叫マシーンが苦手なのに無理やり乗せられる、これと同じことでしょ!

 

見方によっては虐待にもなる。

 

私、完全菜食は許されていないのです!必ず、肉か魚も食べなければいけない主義者なんです!という子供のための給食もご用意お願いします!

 

 

 

他者に何かを強要することになるのなら、別々で暮らすのがお互いにとって幸せだと思うが、多様性以外を認めない「多様性」を強要され、無理して宗教も思想も信条も慣習も思考も常識も作法も異なる人同士が混ざって暮らすことが本当に誰にとっても幸せなのか?、お互いに何かを我慢し合い、ストレスを感じ合いながら混ざって暮らすことが幸せなのか?

 

理解することはできても、物理的に近い距離で混ざって暮らしていれば摩擦や衝突が発生するのは当然のことであり、人間だからこそどうにもならないことでもあろう。

 

だからこそ、物理的に離れ、ほどほどに接する程よい関係で長い間やってきたのだろう。

 

それでも摩擦や衝突が生じることがあるのに、「多様性」などと言って混ざって暮らせば、結局どうなるかは容易に想像できるだろう。

 

理想と現実は異なる。

 

人間が全知全能の完璧な存在ではない以上、その理想は実現できない。

 

そもそも、という事の本質から見直すべき時なのでは?

 

と、私は考える。

 

 

 

それでも「多様性」とやらを掲げたいのなら、「多様性地域」とそうではない地域に分けるとか、一宗教の教えや慣習に他宗教が我慢するかわりに、その一宗教は他宗教の教えや慣習を我慢する約束を交わすなど、対等に我慢し合うことを前提としなければ理想は成立しないだろう。

 

お互いの宗教や思想・信条などを認め合うのが「多様性」ではなく、お互いに何かを我慢し合うことを前提とした「多様性」を受け入れることが「本当の多様性」なのだという現実、事の本質に気付かない限り、おかしな方向へ進むだけだろう。

 

「お互いに認め合う」なんて上っ面の綺麗ごとを言っているうちはダメ!、「お互いに我慢し合う」という事実、本質を受け入れられるかだ!

 

お互いに我慢し合うなんてお互いにストレスだらけとなり、イライラし、衝突になるのでは?、と思いますけどね私は。

 

今、欧米諸国の街中ではそのような衝突、ストレスをため込みイライラした者による暴力が増加している。

 

もう答えは出ている。