「不審・偽・体」のパリ五輪JUDOが世界に知れ渡った

 

上っ面の勝敗だけを考え、人間性、精神性、相手に対する敬意などそこに無い。

 

「心・技・体」をそろえた状態で高めるのが武道、柔道だが、パリ五輪のJUDOには「不審・偽・体」しか見当たらない。

 

組み手すらまともにせず相手を押し倒し転がすだけの偽りの技術と体格だけで勝ち、そこには柔道本来の技術も心も無い。おまけに審判や試合運営の公正公平も感じられない。

 

今こそ、日本の「心・技・体」を高める柔道と、スポーツの「技・体」しかない「JUDO」の違いを世界に知ってもらう良い機会!

 

ここに「心」、相手に対する敬意は感じられない。

 

ここに「心」、人間性の高さは感じられない。

 

ここには「不審」しか感じられない。

 

プログラミングで予め設定可能なものを誤審ばかりのパリ五輪において信用しろと?

 

もはや「心・技・体」をともに高める武道としての「柔道」と、相手に対する敬意?、人間性?、精神性?、何それ金メダルに必要なの?そんなもん必要ないでしょ!という「JUDO」はまったくの別物!

 

多様性を叫ぶ連中が多いので、「JUDO」は「不審・偽・体」の柔道もどきとして認めてあげるとして。

 

「心・技・体」すべてを高めるものが「柔道」であり、「JUDO」とは別物であることを世界に宣言すべき時だと思う。

 

 

 

相手に敬意など一切払わず、組み手もまともにせず押し倒し転がす偽の技術と体格差で勝つことに拘り、疑わしい審判による判断で勝敗を決める「JUDO」と、

 

技術や体力だけでなく、人間性や精神力までも高め、常に敬意を忘れず勝負に挑む「柔道」、どちらにそのものの奥深さを感じるか、どちらを極めることによって自身の人格をも高めることができるのかを世界に考えてもらえばよい!

 

上記で言う「JUDO」と「柔道」、どちらを極めた者を尊敬できるか?

 

私なら「柔道」を極めた人を尊敬する。

 

自分もそうなりたいと思う。

 

多様性を叫ぶ世の中なので、敬意?人間性?精神?そんなもん必要ねぇ!という人は「JUDO」を選べばよいのでは?どうぞどうぞ!

 

 

 

最近、日本の武道など「道」と呼ばれるものの精神性に魅力を感じてくれる外国人が増えているようで、上っ面だけを見るのではなく中身もという思考が世界の当たり前になると良いなと思っています。

 

そうなれば「JUDO」ではなく「柔道」が好まれるようになり、「JUDO」はやがて廃れることだろう。

 

 

 

しかしまぁ、開会式でマリー・アントワネットの死を弄び、宗教をコケにし、疑わしい判断で勝敗を決し、菜食主義を押し付け肉料理なし、環境保護を訴えエアコンなしにしたくせにフランス選手はエアコン使用し・・・、こんなんでフランスの印象良くなる?、偽善者の自己満足でしかないだろ!