人格者は嫌いな人物に対しても人としての敬意を払う

 

だが、この早稲田大学教授の有馬哲夫氏には、嫌いな相手に人としての敬意を払う心の余裕はないようだ。

 

その程度の人物ということだろう。

 

 

この有馬哲夫氏の言動という客観的事実から、この人物の心・精神の狭さ、余裕の無さ、排他性などが感じられる。

 

当然、嫌いな人物であろうとも敬意を払えない時点で、互いに議論を戦わせる討論も成り立たない。

 

相手に敬意を払えないということは、「バーカ、アホ、お前の母ちゃんでべそ!」みたいな言葉を投げつけることになるだろうから。

 

実際、この人のSNSでの投稿を見るとチラホラそんな内容でしかない投稿もある。

 

 

 

ま、表現の自由だの、思想・良心の自由だのがあるので、それらをはき違えて好きにすればいいが、

 

そもそも、自身が他者からそう言われた時にどう思うのだろう?

 

有馬哲夫氏がガンを患ったとして、

 

あれ?

有馬氏ガンでSNSやめるんじゃなかったの?

ろくでもないこといって愚民を煽ってると、治らないよ。

 

自身がガンの闘病中にこのように言われて嫌な気分にならないのか?

 

そもそも、他者を「愚民」と言えるほどの人格者だと思っているのか?

 

私は、「自分がやられて嫌なことは他者にはしない!」というのが正義だと考えているのでしない。

 

こんな投稿されたら嫌だもの。

 

 

 

SNSによってその人の内面が見えるようになった

 

文章はどのようにでも繕えるものだが、SNSは短文で容易に投稿できることから、その時の感情のままに文章を投げつけてしまうことが多い。

 

ストレス状態にあり嫌いな人物を貶したいと思えば、SNSで容易に実現できてしまうので、ついついやりがちになる。

 

しかも、それに対し「いいね」などと同意してくれる者も少なからず存在するので、気持ちが良くなる。(実際は、それを見た何万、何十万人のうちの数人、数十人程度だったりするが)

 

 

 

人に対して敬意を払うということは、その人のことを少しでも考える、想像するということ。

 

その際に、自身がその立場になったらというのも考えるものだが、敬意を払わない者は相手のことなど一切考えない。頭を使わない。

 

だから、平気で雑に言葉を投げつける。

 

そういう人物なのだということが、SNSというものによって世間に表面化されるようになったのはSNSの良い点だ。

 

 

 

心の中だけに留めておけば世間にはわからなかったことが、SNSというもので容易に発信でき、発信したものに「いいね」などと賛同してくれる者がわずかでも存在しようものなら、自身が間違っていないなどと錯覚することもでき、承認欲求を満たすこともでき、ストレスを発散することもできるので、ついつい繰り返してしまい、どんどん自身の人格の程度を世間に晒すことになり、「え!、こんなこと平気で言う人が大学教授なの?」と異様さに気付ける人も増えるという。

 

SNSの使い方で、自身のメッキを自身で剥がすことになるが、剥がれた頃にはそのことにすら気付けないほどの中毒症状に陥っているという状態なのだろう。

 

そもそも、人格者はこんなSNSの使い方はしないし、あんな投稿もしないし、嫌いな人物であっても人としての敬意を払うのでその発想すら起きない。

 

 

 

自身の行いは自身に返って来る!何十年か生きていれば何となくそう感じません?

 

ま、罰が当たらぬよう、地獄に落ちぬよう、この世を生きておいた方がいいですよ!

 

地獄があるかないかはわからんのだから、あると思って生きておいた方が安心でしょ?

 

あ、手遅れなんてこともあるか・・・

 

こんな考え方、随分と前から無くなってしまった。

 

そんな国になってしまった日本。

 

 

 

ちなみに私は百田氏や日本保守党を支持しているわけではないですよ。

 

主張や政策の内容すらろくに分かっていないので、まだ何とも。

 

ただただ、このような投稿をする者の人格は如何なものか?と思っただけのこと。