理想ばかりを見て現実を見ない、見て見ぬ振りをしているうちは誰も幸福にはならない
そりゃ、出身国、民族、人種、宗教、使用言語、文化、習慣、考え方などなどの異なる人たちが何ら不満も無く一緒に暮らせたら良いことでしょう。
だが、様々な出身国、民族、人種、宗教、使用言語、文化、習慣、考え方などなどに対応できている社会、国などどこにあるのでしょう?
「多様性を容認した多民族国家」などと言っていても、それは上っ面だけであって、実際は様々な問題が発生し、結局は誰もが不満を抱えながら生きているのが現実。
YAHOO!ニュース 「『行政書類の年号は「元号」中心なのでわかりにくい』『給食は文化や宗教に配慮して』定住外国人と熊本市長の対話集会」
この集会で答えが出ているではないか!
日本で暮らしているのに、日本の歴史、文化、天皇を象徴するかのような「元号」を受け入れようとしないのに、自分の文化、宗教には配慮してくれという矛盾した状態では誰も幸福にはならない。
物事に筋が通っていないうちは、その物事がうまくいくことは絶対に無い。
外国人のために日本の伝統、文化を途中で断ち切るようなことになれば、日本人の中には不満を強める人も出てくるだろう。
逆に、外国人は日本の歴史、伝統、文化、天皇制に配慮してくれないのか?という話になる。
給食にしても、多文化、多宗教に対応しようとしたらどうなることか・・・
容易に想像できる。
費用は確実に高くなるし、調理して提供するということ自体実現できるかどうか・・・
もしかしたら、日本人が日本食を食べられず、日々、他国の文化、宗教に合わせた給食に・・・なんてことになるかもしれない。
日本国なのだから日本の一般的な食事を提供するのは当然であって、それに不満を持ち日本を変えさせようとするよりも、自分の文化、宗教、生活習慣に合う国で暮らすことが自身の幸福になるのではなかろうか?
相手の自然を自分のために不自然にさせることより、相手の自然と自分の自然が一致する、似ている国で暮らすことの方がお互いの幸福になるのでは?
日本の文化、習慣、宗教に合わせて生活できる外国人なら不満を持つことなく日本人と共に生きていけるだろうし、外国の文化、習慣、宗教に合わせて生活できる日本人なら不満を持つことなくその国の人と共に生きていけるだろう。
その方が、お互いに不満を持つことなく幸せに生きていけるのでは?という話と、「その国の文化、習慣、宗教に合わせて生活できる」というのが他国へ移住するうえでの最低条件なのでは?という話。
理想だけしか見ない偽善が入ることにより面倒なことになる。本来、話は簡単なのだよ。
外国人のために日本が変われと言うならば、では、日本人のために外国は変わってくれるのか?を問うてみればいい。
僅かな日本人の移住者や観光客のために、道路標識に日本語表記も併記し、学校では日本人のために納豆なども普通に提供してくれ、西暦の横に日本の元号も併記してくれる?
そんな国絶対に無いだろう。
出身国、民族、人種、宗教、使用言語、文化、習慣、考え方などなどの異なる人たちが何ら不満も無く一緒に暮らすのが良い事だ!(実際は難しくて実現できそうもないけどね)という偽善状態では、逆に不幸を生み出すばかり。
もはや実現不可能だとわかっている理想をいつまでも掲げるより、現実を見つつ理想を忘れない状態の方がお互いの幸福になるのでは?
出身国、民族、人種、宗教、使用言語、文化、習慣、考え方などなどの異なる人たちが何ら不満も無く一緒に暮らすのは困難だ!(理想は皆関係なく不満も無く暮らせたらいいけどね)という現実を受け入れた状態にする!
多様性、他宗教を互いに認めつつも、一緒に暮らすのは難しいという現実も認め、文化、習慣、宗教の似ている者同士で暮らすなどのある程度の区別をしつつ、理想を忘れずに生きる。
これが答えでは?
お互いに妥協できるある程度の区別をつけ、それを守り続けることができていれば、今のイスラエルとテロ組織ハマスの戦闘状態も、パレスチナ問題も無かったはずだ。