テロ、暴力、侵略に真っ当な理由など無い! 勝手なこじ付け、屁理屈に過ぎない
そんなことすら心得ていない者が、テロ、暴力、侵略を直接的、間接的に擁護しているという客観的事実にも気付けない。
さも、「世の中のことを考えています」みたいな文章だが、「テロを利用した偽善」でしかない文章。
「テロは決して許してはいけないけど、テロは失望から生まれます。」
ぱっと見て、ついつい、「うん、うん、その通り!」などと思ってしまいそうだが、よく考えてください!
世の中、日本だけでも1億人以上もの人たちが日々暮らしていて、その中に様々な状況、理由で「失望」を感じて生きている人たちも多くいるはずです。
でも、「失望」を感じているからといって「失望」を感じている誰もが他者を傷つけたり、暴力でどうにかしようとしているわけではない。
何なら、私個人も今の世界、日本社会に失望を感じていますけど?
理不尽なロシアによるウクライナ侵攻、金儲けが透けて見えるSDGs、様々な利権や企みばかりで一向に本気を出さない温暖化対策、いい加減な文書を持ち出して議員を失脚させようとする蛮行をしっかりと罰することもできない世の中などなど、失望を感じているが、だからとて首相を暗殺してやろうとか、誰かを暴力でどうにかしようなどという発想には至らない。
「テロは失望から生まれる」のではなく、「テロは失望などの上っ面の理屈をこじつけて実行される」のである。
「テロは失望から生まれる」という思考は、「失望」という理由をこじ付けてテロを実行しようとする思考の一歩手前。個人の勝手な理由をこじ付けてのテロ行為と紙一重の思考である。
そうではないとしても、「失望があるからテロは仕方ないよね」と思わせる隙を絶対に与えてはいけない。
テロを実行する者の思考は、何事も自分の都合に合わせて解釈したり、捻じ曲げたりする。
そのような者に、「テロは失望から生まれる」という言葉を与えようものなら、「失望があるのだからテロは仕方ない」というお墨付きを与えることになるということをいい加減に理解せよ。
テロを無くすには、この国を希望の持てる国にしなければいけません。
テロを利用したこの主張も、テロを実行する者にとっては、「この国には希望が持てないからテロで何とかするしかない!」と思わせ、背中を押す言葉になってしまう。
皆さんはテロを無くすために希望の持てる国を望んでいるわけではなく、希望を持って生きたいから希望の持てる国を望んでいると思うのだが・・・
なぜ、テロと絡める必要があるのか?
テロがあろうが無かろうが、希望の持てる国にしましょうや!
つまり、
●希望の持てる国にしましょう!
●テロや侵略は絶対に許さない!
と、別個に考えればいいものを、「テロ」と「希望」を結び付けるから、「希望がないからテロは仕方ない」という思考を生み出すのだ。
つまり、「テロ」と「希望」を絡めることで、テロ行為の理由を与えるという共犯状態になっているということ。
ぜひぜひ、希望の持てる国しましょう!
そんでもって、何があろうとテロ、暴力、侵略は絶対に許しません!
と主張すればいいだけのこと。
何があろうとダメなものはダメ、他の真っ当な手段で頑張りましょうとなぜ言えないのか?
「この国を希望の持てる国にしなければいけません。」、確かにその通りだが、随分とふわふわとした上っ面だけの主張だなと感じる。
そもそも、現実として、すべての人が希望を持てる国など存在しないし、実現は不可能だろう。
言論で何とかするべきだという者もいれば、テロなどの暴力で何とかしようとする者も現実にいるわけだから。
だからこそ多数の意見である、テロ、暴力、侵略は絶対にダメ!という考えに則った法律をつくることで世の中を律しているわけだ。
でも、折角律しているものを骨抜きにしかねない主張が、「○○は許せない、『だが』」という主張だ。
「ロシアによる侵攻は許せない、だが、ウクライナも・・・」
「暗殺など許せない、だが、安倍元首相も・・・」
「テロは許せない、だが、世の中がどうのこうの・・・」
こういった主張は、
「ウクライナも・・・だから、ロシアによる侵攻は仕方ない」
「安倍元首相も・・・だから、暗殺されても仕方ない」
「世の中がどうのこうのだから、テロが起きるのも仕方ない」
という思考へと後押しすることになる。
ということにまだ気付かない、気付けない人たちがいる。
そもそも人間は自己中心的で自分に甘い、自分の利益や願望のためなら物事を自分の都合に合わせて解釈したり、受け取ったりして、「仕方ない」などと都合よく結論を出すもの。これを、他者から見れば屁理屈でも本人は真っ当な理屈として主張したり、行動したりする。
その傾向が強い者への後押しとなる「主張の仕方」は考え直してほしい。
「ダイエット中なのに寝る前に食べるなんてダメ、だが、腹が減ると眠れないので・・・」という主張は、ダイエットしている人にとっては、「眠れないならちょっと食べるのも仕方ないよね」という理由を与えてしまう。
「○○は許せない、だが、」という主張で物事が良い方向へ行くことって・・・あまり無いような・・・あるとしても、どうでもいいくらい軽いことだけでは?