「自分がされて嫌なことは他人にもしない!」を何の気もなしにネット検索してみたら
色々な考え方、捉え方があるものですな!
「自分がされて嫌なことは他人にもしない!」を
●「自分がされて嫌なことは、『当然、他人にとっても嫌なことだから』、他人にもしない!」
と捉え、その「当然」に嫌悪感を抱く人。
●「『自分がされて嫌なこと』と『他人がされて嫌なこと』が同じとは限らない。」と捉える人。
●「逆に、『自分がされて嬉しいこと』が『他人にとっては嫌なこと』かもしれない。」と捉える人。
などなど、まぁ、様々な捉え方があるものだなと思った。
が、私からすれば、「そんなに凝り固まった捉え方しなくても」、「柔軟に軽く心に負担にならぬよう捉えればいいのに」といった感じ。
当然、他人にとっても嫌なことだから
昔は、「当然、他人にとっても嫌なことだから」という理由だったのかもしれないが、今を生きているのは自分なのだから自分が思うように捉えればよかろう。
私なら、「当然、他人にとっても嫌なことだから」ではなく、「自分が嫌なら、他人にとっても嫌かもしれないから」程度の、「かもしれない」という不確定を前提とした考え方をする。
だって、他人のことなどわかり切れるわけが無いのだから。
一心同体でもあるまいし、どう頑張ったって無理!
であるならば、「かもしれない」程度で十分!
「かもしれない運転」と同じですよ。
「子どもが飛び出してくるかもしれない」と思いながら運転していれば、飛び出して来た時に事故を防げるし、飛び出してこなくても損はしない。
「他人も嫌かもしれない」と思い自分がされて嫌なことを他人にしないでおけば、相手が嫌だと思う人だったら関係悪化を未然に防げるし、もし、何とも思わない人だったとしても損はしないだろう。
されて嫌なことが他人と同じとは限らない
これも上記と同じ。
「自分の嫌なこと」と「他人の嫌なこと」が同じとは限らないけど、わざわざ確認してからというわけにもいかない、だからこそ、「『せめて』、自分がされて嫌なことは他人にしないでおきましょうよ!」。
相手が嫌だと思う人だったら関係悪化を未然に防げるし、もし、何とも思わない人だったとしても大した損はしないのだから。
逆に、自分がされて嬉しいことが他人にとっては嫌なことかもしれない
その通り!
お誕生日会をされて嬉しい人もいれば、お誕生日会なんて面倒という人もいる!
そもそも、「自分がされて嬉しいからと、他人にもしてあげよう」と思うその関係って、まあまあ相手のことを知っている状態ですよね?
であるならば、予め確認もできるし、高い確率での予測もできるのでは?
どれも、「自分がされて嫌なことは他人にもしない!」に対して、「他人に合わせろということか!」とか、「自分の感性と他人の感性は違う!」となどと主張したいこと前提なので、わざわざ凝り固まった捉え方をしているのだろう。
「善人ぶりやがって」、みたいに思うのかもしれない。
もしくは、自分の考え方の方が進んでいる!などと主張したいのかもしれない。
いやいや、そんなに意固地にならんでも、柔軟に合理的に考えればよかろうにと思うのだが。
所詮、他人のことなどわからんのだから、せめて、自分がされて嫌なことだけでも、他人にせぬよう行動しておけば、トラブル発生率も下げられるのでは?
ということですよ!
ただ、自国が他国に侵攻されたら?、自分が前向きな行動をしている最中に殺されたら?、自分が不確かな情報だけでそうだと決めつけられたら?といった、明らかに嫌だとわかることは、考えるまでもなく絶対にするな!と言いたい。