立憲民主党の蓮舫氏、相変わらず短文のツイッターでの「批判もどきの雑音」を発している。

 

予想通りの反応だ。

 

予想通りということは、何ら変化も成長もしていないということでもある。

 

読む側の受け取りにもよるが、デマに近いツイートなので正す意味でも「正しい批判」をすることにした。

 

問題のツイートがこちら。

 

 

 

朝日新聞の「ウガンダ選手団、PCR検査1人陽性 成田空港で判明」という記事を引用し、ウガンダ選手団9人のうち1人がPCR検査で陽性だったことに対し、

ワクチン2回接種。出国96時間以内に2回のPCR検査を受けて陰性証明書を持っていましたが、空港検査で陽性判明。
すり抜けてしまうリスクです。

と指摘している。

 

これは正しい指摘と言えるだろうか?

 

「すり抜け」と言えるのだろうか?

 

ワクチン接種の完了、出国前のPCR検査、日本入国時の抗原検査とPCR検査だけが対策ではなく、入国時の感染判明も想定したうえでの厳重な隔離、さらに例え感染していなくとも自由に日本国内を歩き回れない行動制限、そして、その監視まで含め感染拡大防止策だ。

 

ウガンダの選手から陽性者が判明した時点では、「すり抜け」てはいない。

 

しっかりと陽性という結果に対し隔離という対策がなされ、他8人については公共交通機関を利用せず貸し切りバスで移動することで、日本国内を自由に移動させてはいない。

 

よって、現状におけるオリンピック関係者への感染拡大防止策は適切に行われているというのが事実だ。

 

立憲民主党の蓮舫氏のツイートは、感染拡大防止策の全体を見ず、「陽性者が出た」という一部だけを取り上げ、「すり抜けてしまうリスク」などと起きてもいないことを付け加えて危険性だけを煽るようなただの難癖、文句でしかない。

 

もし、入国時のPCR検査で判明せずとも、選手たちには毎日PCR検査が実施されるので、何日も見過ごされることはなく、さらに、オリンピック関係者は日本国内で自由に行動はできず、許可なく日本国内の一般市民と接することなどできない状態なので、日本国内への感染拡大に繋がる可能性は極めて低いので、蓮舫氏の言う「すり抜けてしまうリスク」は極めて低いと言えよう。

 

 

 

さらに、

今回は9人の選手、五輪は10万人が来日。スポーツの感動を子どもに、などと言っている場合ではないです。

とあるが、立憲民主党の蓮舫氏は知らないのだろうか?

 

オリンピックに関係なく、毎月1万人以上もの渡航者が日本に入国しているという事実を。

 

昨年10月:27,386人、昨年11月:56,673人、昨年12月:58,673人、今年1月:46,522人、今年2月:7,355人、今年3月:12,276人

【参考】JNTO 日本政府観光局 国籍/月別 訪日外客数(2003年~2021年)PDFファイル

昨年12月と今年1月だけで10万人ですよ。

 

オリンピックに関係なく、既に日本にはこれだけの渡航者が出入りしているのです。

 

本当に日本国民の健康を考え問題点を指摘するなら、ワクチン接種や何回ものPCR検査、入国後も行動制限があり、その監視もされているオリンピック関係者から陽性者が出たことに対してではなく、

 

オリンピック関係者よりも緩い条件、緩い検査、緩い隔離、緩い監視で毎月数万人もの渡航者が出入りしていることこそ指摘すべきではなかろうか?

 

なぜ、日本国内の市中にすり抜けたわけでもないウガンダ選手団からの陽性者判明を声高に批判しているのか?

 

こういった点から、蓮舫氏は、国民の健康より、「東京オリンピックを失敗させ政府に打撃を与えたい」という個人の都合や欲求の方を重視しているのだなと読み取れてしまう。

 

こうやって客観的事実から裏を読むことができるのです。

 

日本国民の「命」だの「健康」だのと言いつつも、それは上っ面を繕っているだけで、実は、ただただ日本政府に打撃を与えたいだけなのでは?という不信感を持っている人も多いのではないだろうか?

 

 

 

上っ面を繕っているだけでは?という視点で見ると「子ども」という言葉にも引っかかるし、「人権」、「命」、「平等」、「子ども」といった言葉を利用して批判することが多い割に、「#女性の声が東京を変える」などと掲げ、新宿駅前で演説をしたことにも疑問を感じる。

 

東スポWeb 「蓮舫氏『なぜ五輪選手村だけ特別待遇なのか』菅首相と西村経済担当相の“コロナ対策”を批判」

 

 

「女性」と区別した時点で、「差別」の一歩手前だと私は思っている。

 

「女性の声」ではなく、「みんなの声」でよかろうに、なぜ、「女性の声」と区別をつけてしまうのか?

 

女性の声があってもいい、男性の声があってもいい、性別に悩んでいる人の声があってもいいわけでしょ?

 

ならば、あえて「女性の声」などと区別する必要性は無いはず。

 

なぜ区別をしたのか?

 

「女性」と声高に主張すれば、注目されがちだからでは?

 

だとしたら、蓮舫氏は「女性」という性別や言葉を自身の都合に合わせて利用したことになる。

 

「女性」、「女性」と主張すればするほど、「平等」はどこへ?という疑問も生じてしまう。

 

 

 

この演説内で、

「緊急事態宣言が出れば(国民に)無理を強いるのに、選手村の中だけは毎日PCR検査をする、ワクチンを優先して打つ。なぜそこだけ(五輪選手村だけ)特別待遇なのか。まずは都民と国民の命を最優先することこそが、立民が考える都議選で訴える感染症対策だと言いたい」

と「都民と国民の命」という言葉を用いて批判しているが、何らかの改善策を述べたのだろうか?

 

それとも、「都民と国民の命を最優先しオリンピックを中止せよ!」という全否定なのだろうか?

 

ここで、具体的にオリンピック関係者よりも緩い条件、緩い検査、緩い隔離、緩い監視で毎月数万人もの渡航者が出入りしていることを指摘し、その改善案でも述べていれば、国民の見る目も違ってくるだろうに・・・東京オリンピックを中止に追いやり政府に打撃を与えたいという思いが本音なので、真に国民の命にかかわる具体的なことには何ら言及しない、できないのだろう。

 

結局、「都民と国民の命」という言葉も、さも、それが最優先かのように上っ面を繕っているだけの言葉ということになる。

 

 

 

物事をもっと広く、俯瞰して、全体を見ながら問題点を見つけ、その問題点をどのように改善しながら全体をより良くしようという思考は無いのだろうか?

 

全体を見ないから、「女性の声」などと細かく区別してしまったり、一部の問題点だけを取り上げて「立ち止まりましょう。」などと全否定してしまうのだろう。

 

「平等」にしたいのでしょ?、ならば、「女性の声」などと区別することをやめ、誰もが声を発せる(できれば雑音ではなく正しい指摘と改善案がセットになった正しい批判を!)ようにしましょうと訴えればいいし、

 

世の中には完璧など無いのだから、一部の問題点だけで全否定したり、全体を止めるのではなく、問題点を改善させながら進むという思考を身に付けてみてはどうだろう?

 

これが私の提案だ。

 

 

 

一応、「正しい批判」を心掛け、客観的事実をもとに問題点、間違いを指摘し、その改善案として私なりの提案もしてみた次第です。

 

立憲民主党の蓮舫氏もツイッターなどの短文で文句だけを言うのではなく、客観的事実を提示しながら問題点を指摘し、その改善案まで示すという「正しい批判」を心掛けてはどうだろう?

 

これも私からの提案。

 

 

 

ちなみに、立憲民主党は全国民にPCR検査などと主張していたが、ウガンダ選手団の件を見てもPCR検査や陰性証明書なんて不確かなものだとわかったでしょ?

 

客観的事実から学びましょう!

 

突っ込みどころが多く記事が長くなってしまうのでここまでにしておこう。