なんだか、毎日のように何らかの批判を耳にしていて疲れてきた。
ちょっと何かあると、たちまち爆竹が弾け、それが次々に引火してさらに弾けるように批判が広がる。
得てして、他人に厳しい人ほど声高に強く批判するものだ。
そして、得てして、他人に厳しい人ほど自分には甘かったりする。
自分に厳しく他人に優しい人の厳しい指摘や批判なら聞いていて納得できることもあるが、自分に甘く他人に厳しい人の指摘や批判は中身が薄っぺらく、雑音でしかないことが多い。
今の世の中どちらが多いか、強いかと言えば、私は雑音の方が多く強いと感じている。
過ちを犯した人に対して強く批判するのも結構だが、他にもやり方はあるだろう。
説得する、理解してもらう、諭すといったやり方で正す方法もあるが、世の中は批判という攻撃的なやり方を好むようだ。
それでいて戦争反対!だの、話し合いで解決を!だのと主張していたりもする。
言っている事とやっている事がめちゃくちゃだ。
そう客観視すると、人間そのものが不完全なのだと理解できる。
例え相手が悪いとしても即攻撃ではなく、どういった本心があってのことだったのかなどを考慮するのも、戦争を防ぐ方法のひとつであろう。
上っ面では悪いように見えても、実はそれほど悪意が無かったとしたら、即攻撃する必要はないのかもしれない。
上っ面だけで即反応するのは危険なのに、世の中、即反応できてしまうからやってしまう。
それもどうなのだろうと疑問に思う。
具体例をあげて言うと、
東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の「女性蔑視ともとれる発言」への批判などは、そもそも、報道でも「女性蔑視ともとれる発言」と表現しているわけで、つまり、森喜朗氏に悪意があって女性蔑視しているとは言っていないし、誰もそうであると断定はできない状態だ。
それなのに、上っ面だけで、さも、森喜朗氏は女性を蔑視している人間だと決めつけているかのような批判の仕方も見受けられる。
このような批判は明らかに雑音でしかない。
上っ面だけで即反応し、その人の本心も知らないくせにそうであるかのように勝手に思い、勝手に怒りを増幅させて批判してしまっている。
法の下であれば不確かな部分に対して罰せられることはないが、世の中は不確かでもそうであると決めつけて罰してしまうことがある。
極端な例かもしれないが、関東大震災時には、「混乱に乗じた朝鮮人が凶悪犯罪、暴動などを画策している」という情報が流され、それがいつの間にか「朝鮮人=凶悪犯」のように決めつけられ、朝鮮人というだけで日本人に殺害されたこともあった。
この状態を私は怖いと感じている。
そういったことから森喜朗氏の発言を正しく批判するとすれば、公式な立場の者が公式な場において発してはならない発言に対して批判するのみであって、現段階において、森喜朗氏自身が悪意をもって女性を蔑視している人間だという批判をしてはならない。
そもそも、批判をしている人たちは、森喜朗氏に対する厳しさと同様に自身にもその厳しさを課しているのだろうか?
公式な立場、公式な場においての「女性蔑視ともとれる発言」を批判しているなら、自身も公式な立場、公式な場において何かを蔑視しているかのような発言に気を付けなければならない。
まぁ、公式な立場の人も、公式な場も限定的なので、その時だけでも気を付ければ徹底できそうだが、人間完璧ではないので、自身がいつどこで、ついそういう発言をしてしまうかはわからない。
それに、あまりに度が過ぎる批判は、それ自体が偏見や蔑視と同様の状態になりかねないことも心得ておくべきだろう。
もう一つ例をあげると、これ
産経新聞 「蓮舫氏『言葉伝わらない』 菅首相『失礼ではないか』 コロナで応酬」
蓮舫氏は「そんな答弁だから言葉が伝わらないんですよ。そんなメッセージだから国民に危機感が伝わらないんですよ。あなたには首相としての自覚や責任感、それを言葉で伝えようとする、そういう思いはあるんですか!」と激しい言葉で畳みかけた。
蓮舫議員は他人に厳しく自分にも厳しい人なのか?、それとも、他人に厳しく自分には甘い人なのか?
答えは簡単。立憲民主党の支持率を見ればわかること。
「そんな答弁だから言葉が(国民に)伝わらないんですよ。」と指摘、批判している蓮舫議員自身の言葉が国民に伝わっていれば、立憲民主党の支持率は右肩上がりのはず。
しかし、実態は・・・
自身にも厳しい人が他者に対して「そんな答弁だから言葉が伝わらないんですよ。」と厳しく指摘、批判すれば、多くの国民が納得もし、そう発言した人を尊敬し支持もするだろう。
しかし、他者に厳しいばかりで自身はどうなの?という疑問を感じる国民が多いから、尊敬し支持する人が増えない。
それと、蓮舫議員の攻撃的な物言いが、やはり、戦争反対の多くの国民にとっては受け入れられない部分もあるのだろうと思う。
蓮舫議員の菅首相に対する厳しい指摘、批判は、そのまま自身にも当てはまるということだろう。
厳しい批判だけでなく、相手の心情や情況を考慮しつつの説得、お願いというやり方でも相手を変えられるということを学んでもらいたい。
厳しい批判というやり方を選ぶなら、自身に対しても常に厳しくなければ説得力はない。
さらにもう一つの例は昨日書いたブログ記事
「他者に厳しい玉川徹氏によると、ファイザー製ワクチン1瓶が5回分になるというのは厚労省の責任だとさ」
とにかく、
他者を厳しく批判する前に、
自分は自分に厳しく他人に優しい人なのか?、もしくは、自分に厳しく他人にも厳しい人なのか?を考え、
さらに、自分はそれに対し完璧なのか?を考え、
そのうえで、「自分は自分に厳しい人間で、そのこと(批判の対象)に対しては完璧に対処できている。」という時にだけ厳しく他者を批判すればいいのでは?
そうではない人までもが声高に批判をするから雑音ばかりになり、世の中が無駄にざわつくのだ。
それと、他者を厳しく批判するだけが改善策ではないということも心得るべきだろう。
無駄に雑音やストレスを発生させずとも改善や解決できることもある。
というか、そもそも、ストレス発散のために批判している輩も多いのでは?
私も深層心理ではそうかもしれないし。
他者を厳しく批判できるほどの聖人なんて実際はそれほどいないだろう。
皆、裏で何をしているか、心の中で何を考えているかなんてわからない。
上っ面だけだったり偽善者かもしれん。
人間なんてそんなもん程度に思っていればいいのに、他者を厳しく批判しちゃって、自分で自分の首を絞めているようなものだ。
他者への行いは、いずれ自分にも返ってくる。
「自分に厳しく、他人に優しく」でなくとも、せめて「他人に厳しくなら、自分にも厳しく」
「人の振り見て我が振り直せ」
これを心得ていない人の批判は単なる雑音だ。