正直なところ、私個人は成人式に良いイメージが無い。
着飾って集まって騒いで、時には警察沙汰にまでなって、何の意味があるの?、それで成人と言えるの?と思ってしまう。
こう思うのも、こう言えるのも、私自身が成人式に出席していないからで、自身も出席していたら成人式に文句など言えない。
出席しなかったのは、別に友人がいないわけではないし、成人式に出席するための服装を準備できなかったからでもない。
今現在もそうであるのと同様に、その当時から成人式の意味、意義に疑問を持っていたからだ。
当時は学生なので、スーツを購入するにしても親にお金を出してもらわねばならず、親にお世話になりっぱなしなのに成人と言えるのか?と思ったのです。
成人として成人式をどう考え、どう行動すべきか?
その当時のその答えが、「成人式は欠席し、いつも通り、学費や定期代のためのアルバイトをしよう!」というもの。
なので、自分の成人式の日、私はいつも通りファミレスでアルバイトをしていた。
休日だったので、長時間勤務できありがたかった。
ファミレスでバイトしていると、当然、成人式を終えた地元の同年代たちが食事しに来るわけだが、私はキッチンだったので、気にすることも無かった。
着飾った同級生たちが飲み食いしながら騒いでいる傍で忙しくアルバイトをしている私。
今思えば、職場の人たちはどう思っていたのだろう?
私自身は気にかけず、いつも通りにしっかりと成人らしく仕事に励んでいたつもりだが、職場の人に成人式のことを言われた覚えはない。
気を遣ってくれたのかもしれない。
今に至るまで、成人式に出席しなかったことを後悔したことは無い。
男なので、着飾ったところで女性の着物ほどのインパクトは無いし、今後、嫌になるほどスーツを着るとわかっていたので、何とも思わなかった。
そもそも、男のスーツにしても、羽織袴にしても、似合うようになるのは社会に出てから。
成人式で着たところで、七五三にしか見えない。
七五三にしか見えないのに成人って・・・・滑稽でしかない。
それに、成人とは?、成人式とは?、その意味は?、その意義は?もろくに考えもせずに成人と言えるのか?という筋の通らないこと自体が当時から好きではなかった。
で、そもそも、成人式とは?
今のような成人式の由来は、戦後間もない1946年に埼玉県蕨市で実施された「青年祭」ではないかと言われている。
敗戦による虚脱状態にあった当時、次代を担う青年たちに希望を持たせ励ますために開催されたそうだ。
となると、もう戦後70年以上経っているのだから、やめてもいいのでは?と思ってしまう。
成人式に出席しなかった私としては、成人式の無駄さ、意味の無さ、形骸化に気付ける本当の意味での成人かどうかを試すためのものと捉えてはどうか?と提案したい。
つまり、ただ単に着飾って集まって懐かしがって騒ぎたいとしか考えていない出席者を成人として祝うのではなく、むしろ、成人として成人式の形骸化に気付き、親に無駄にお金を使わせぬよう気づかいができる欠席者を真の成人として祝う。
なんてね。
こんなことを言えるのも、当時、何が一番重要かを考えて成人式を欠席したからです。
そう言えば、自治体からもらえる記念品?
私はもらっていない。
当然、住所わかるのだから、送ってくれてもいいようなものだが、地元の自治体にそんな心は無かったということか・・・
祝う心すらない成人式という形式的な行事に何の意味があるのか?
まぁいい、当時、成人として今何が重要かを自身で考え、その意志を貫いたということ自体が記念だ。