立憲民主党の安住淳議員の自己中心的な発言に呆れるばかりだ。

 

産経新聞 「立民幹部の『消えれば』発言で福山幹事長が社民に陳謝」

 

 

安住氏は26日の党会合で、多弱化した野党が集まった衆院の統一会派名が「立民・国民・社保・無所属フォーラム」で長かったと強調。ただ、国民民主党の会派離脱が決まり、「間もなくもう一つ(社民が)消えれば『立民・無所属の会』になり、いよいよ本格的にわが党の時代が来るのではないか」と語った。

 

「わが党の時代」だって。

 

あなたの党のために時代があるわけではない!

 

何のため、誰のために国会議員をやっているのか?

 

「わが党」のため?

 

何をどう勘違いしているのか、国会議員の本質を見失い、わかのわからないことを言っている変な国会議員としか思えない。

 

社民党を支持している国民だっているのに、国民のことではなく、自身の党や議員数のことを第一に考えているから、容易に「わが党の時代が来る」などという言葉が頭の中から発生し、口から発声してしまうのだろう。

 

 

 

思想や信条は個人の自由だが、「国会議員の本質」は何者にも変えられない、変えてはいけないものだ。

 

立憲民主党の安住淳氏が「わが党の時代が来る」と思うのも、発言するのも自由だが、その考え方は「国会議員の本質」を心得ているうえでの発言と言えますか?というのが問題なのだ。

 

言葉は口だけで発せられるものではない。

 

頭で考えていることが、口から発せられるのが言葉だ。

 

なので、安住淳氏の頭の中に「わが党の時代が来るぞ!」という国民には理解できない自己中心的、立憲民主党中心的な高揚感のようなものがあったから、「わが党の時代が来るのではないか」という言葉を口から発した。

 

「国会議員の本質」を理解しているまともな国民からすれば、立憲民主党の安住淳氏の口から、「わが党の時代」という言葉が発せられた時点で、安住淳氏は立憲民主党を支持している国民以外はどうでもよく、国民からすれば訳のわからない「わが党の時代」とやらが来ることが、何よりも重要なのだなと受け取るだろう。

 

 

 

「国会議員の本質」を理解しているまともな国民からすれば、今更、その発言を訂正しろだとか、撤回しろだとか、謝罪しろなどと、無意味なことは考えもしない。

 

なぜなら、言葉は発したら最後、撤回などできないのが実態であるとわかっているから。

 

また、上っ面で撤回や謝罪をしても、そもそも、そのような考え方が頭の中にある以上、事の本質は何も変わらないこともわかっているから。

 

ただ単純に、「あぁ、この人はこういう考え方の持主なのだな」と受け取り、自分にとって尊敬できる人なのか、賛同できる人なのかを判断すればいいだけのこと。

 

その判断材料として、産経新聞がこのようなことをしっかりと報じてくれるのはありがたいことだと思う。

 

 

 

私個人は、立憲民主党によって生かされているわけでもないので、「わが党の時代」とやらが来ようが来まいがどうでもよく、ただ、我々国民のことよりも、「わが党の時代」の方を優先されてしまなら、それには賛同できないなと判断する。