大村秀章愛知県知事、「はっきり言って哀れだ」。

 

憲法21条の表現の自由ばかりを持ち出して議論しようとしている。

 

日本の憲法学者もそうだが、70年以上一文字たりとも変更、改善されていない憲法で、今の時代をもやり過ごそうとする時点で、憲法というもの自体を理解していないのでは?と思う。

 

憲法がすべてにおいて絶対ではない。

 

憲法が絶対ならば、大日本帝国憲法が今でも使われているは?

 

 

 

大村秀章愛知県知事は、憲法21条の表現の自由を盾にして特定の人々が嫌がることをすることが許されると宣言しているようなものだが、それを自分の口からはっきりと言葉として宣言しないところにずるさを感じる。

 

「平和の少女像」などと上っ面だけ繕って展示していた像は、明らかに慰安婦像だ。

 

そもそも、その慰安婦像自体、元は慰安婦として形にしたものではないそうだ。

 

別の目的、別の意味を込めて作られた像を、日本や日本人に精神的圧力を与える目的で利用しているというのが実態だ。

 

さらに、その根拠自体も、客観的な事実を基にしたものではなく、一方的な主張だけを基にしたもの、すべてではないにしても、一部捏造された嘘も含まれた主張を根拠に日本や日本人への精神的圧力、日本や日本人を卑しめるために利用している像である。

 

そのような背景がある物体を「芸術」などと決めつけ、憲法21条を盾に公の場に展示するという一連の経緯が許されるべきではない。

 

純粋に制作時から「平和の少女像」として作られ、背景や中身に何ら卑しさやあさましさを感じなければ、これほどの騒ぎにはならなかっただろう。

 

事の背景や魂胆が既に見えてしまっていて、表題との違和感がさらにその疑いを増長し、嫌悪感を強めてしまったのだろう。

 

「教室の美しい花」と題をつけ、ある特定の生徒の机の上に花を生けた花瓶を置き、「これは芸術であって、憲法21条の表現の自由で守られるべきものです。」、「決していじめではありません。」と言えば許されてしまう、そんな上っ面だけ良く見せて中身の卑しい世の中にはしたくない。

 

 

 

昭和天皇の写真らしきものを燃やすかのような映像も、取りようによっては皇室に対する殺害予告にも取られる。

 

「芸術」と名乗っているのだから、誰がどのように受け取ろうが勝手だと言いたいだろうが、その受け取り方に「芸術」から「殺害予告」までという大きな幅があり過ぎては問題だろう。

 

やはり、憲法21条を盾に何でも許されるわけではない。

 

 

 

大村秀章愛知県知事は、「憲法21条の表現の自由についてまったく理解していないのではないか?」と主張しているが、私からすれば、大村秀章愛知県知事は、日本国憲法ができてから今日までの70年以上もの時代の変化を理解していないのではないか?、さらには、慰安婦像というものがどのような経緯で、どのような目的で日本や日本人に対し突き付けられてきたものかも理解していないのではないか?と問いたい。

 

そもそも、70年以上も改善、メンテナンスされていない憲法を唯一の根拠にしていること自体に無理がある。