2月6日に自衛隊全体をまとめる統合幕僚監部に存在していた日報を公開し、後に陸上自衛隊で見つかった同じ日報については、非公表にした。
ということで問題となり、閉会中審査で質疑されているが・・・
何が問題なのか?
自衛隊全体を司る統合幕僚監部から日報を公開したのだから、以降、そのコピーが保管されていようが、見つかろうが、その都度公表する必要があるのかどうかだ。
既に日報を公開したのだから、同じものが後から見つかったとして、その都度記者会見でもして公表する意味があるのかないのか。
「ここにもコピーがありました。」、「あっ、ここにもありました。」、「○○君の引き出しにもありました。」、「○○君が個人的に持っていました。」などと公表すべきなのか?
どうあるべきかの問題であって、公表しなかったことが悪とは言い切れない。
が、しかし、政権与党や安倍政権が嫌いな者にとっては、それを問題視し、悪と判断して追及する材料になるから、材料として取り立てて追及しているのだろう。
既に自衛隊のトップから公開された日報が、陸上自衛隊にもあったからとて、国民の誰が損害を被るのか?
今の時代、コピーは紙でも電子データでも簡単にできる。
誰かが損害を被ったのなら追及されるべきだが、そうでもないことを取り立てて責任追及するというのは、単に難癖をつけているに過ぎないのではなかろうか?
やはり、ここでも「国民にとって」という本質がないがしろにされている。
これを問題視して防衛大臣に責任追及したところで、国民にとって何のメリットがあるのか?
稲田防衛大臣が嫌いという国民にとっては気分が良くなるというメリットがあるのかもしれないが、国全体としてメリットになるのだろうか?
日報公開後に陸上自衛隊内部からも出てきたことを非公表にしたことと、政治や防衛が停滞、政権が不安定になることを比較した時、国民にとってどちらの方が損失になるのか。
細かい部分ばかりを取り上げ、それを報道はさらにカット、編集して細かい点のようにして国民に報道している。
点ばかりを見て、全体を見ていない今の日本。
こんなものの見方で、良い方向を見定めることなどできるのだろうか?
どうするのが国民全体にとって、国全体にとって良いのかから物事を見るべきだ。
まぁ、ちょっとでも野菜にキズがあれば捨ててしまう、店頭に並べたとしても買う人は少ない、こんな国だからこうなのだろうと、最近つくづく思う。
ちょっとしたキズだけで、全部を捨ててしまう。
ちょっとしたミスだけで、その人を全否定してしまう。
キズや傷んだ部分だけ取り除けば十分使える素材なのに敬遠してしまう。
ちょっとでも癖のある人、目立つ人を全否定し、敬遠し、排除しようとする。
日本人の何気ない日々の暮らしを見れば、今の社会がこうなるのも頷ける。
これって、結局、日本にとって、自分たち国民にとっても損です。
使えるものを大した理由でもないのに捨てるわけですから。