なんだか、漫画家の小林よしのり氏、主張や考え方が偏り過ぎてきて、自分の偏った位置からの見方が実は一番危険であると認識できていないように思う。
自分の好み、主義、趣味に合うものは、徹底して賛同、応援、守るのは人間の本能のようなものなので、どうしようもないものだが、だからといって、そのために何をしてもいいというものではないだろう。
自分が好むもの、自分の主義、主張に反する者、批判する者を排除しようという考えは、かつてのヒトラーや独裁者と同じ考え方だろう。
自分が偏った位置に居るにもかかわらず、その位置が真ん中かのように思いながら、もう片方の偏った位置を見て激しく批判している。
これが一番危険だと感じる。
人間、如何にバランスを保ちながら生きていくのかが重要だと思う。
何でもそうだろう。
甘いものばかり食べ過ぎても体を壊し、塩辛いものばかり食べ過ぎても体を壊す。
精神や心、考え方も同様だろう。
小林よしのり氏の「蓮舫代表の記者会見に感動した」という記事を読んでそのように感じた。
蓮舫議員が好きな人が蓮舫議員を褒め称えるのは理解できる。人間なんてそんなものだろう。
しかし、小林よしのり氏は記事の中でこのように書いている。
産経新聞や自称保守系の雑誌では、李登輝を「元日本人」と共感を持って取り上げてるくせに、蓮舫の父親を完全外国人と見做すなんて、日本人ではない!
産経新聞や「アゴラ」やネトウヨこそ、日本から叩き出すべき国辱野郎どもだ。
蓮舫議員を批判する人に対し、その者を排除しようとする考えは筋が通らない。
このようなことを言うと、やつらこそが先に排除しようとしているのだから、同じようにしていいのだと言われそうだが、その考えもイスラム国などのテロと同様で、結局は問題解決にはならない。
都議会議員選挙での安倍首相の応援演説の際に、一部の集団が演説内容に関係なく、「安倍辞めろ!」などと大声で叫び、演説をまともに聞けない状態にしていた。
都議会議員選挙の演説なのに、その内容への批判や野次ではなく、「安倍辞めろ!」という排除する行いをしていたわけだ。
この考えこそが、かつてのヒトラーや過去の独裁者たちの言動ではなかろうか?
自分に反する者、自分とは異なる者に対し、「辞めろ!」、「監獄へ!」というのは、同じ考え方だろう。
小林よしのり氏の主張もこれらと同様で、今の北朝鮮や中国と同じ方向だと感じる。
民主主義の国において、筋の通った理由もなく、ある者を排除する権限を持つ者など存在しない。
そんなことができるとしたら、ヒトラーや北朝鮮、一応、法的に定義はしているようだが中国のような国だろう。
まさか、それを目指しているわけではなかろう。
かつてのドイツがそうであったように、人間は気付かぬうちに偏り、その偏った位置が正常であると認識し、さらに偏った方向へと突き進んでしまう。
その結果、今思えば惨たらしい行いも平気で行えてしまう。
そうならぬよう、バランスを保つのが人間の一番の課題だろう。
そう考えると、双方の意見を聞き、気に入ったどちらかの意見に賛同するより、双方の意見を聞き、両者から良いと思った部分を取り出してよりよい考えを作り出す。
これが一番だろう。
双方の意見を聞き、気に入らない方を排除する、打倒するという今の世の中の風潮は、たとえ少しでも良い部分があっても、それを破壊することになり、無駄となる。
国会での与野党のやり取りを見ていても、与党の案を廃案にすべきと主張するばかりで、国のために、与党の案をさらに改善させるという、建設的な行いが見えない。
中には改善案を出している政党もあるが、報道されるのは、廃案を主張している場面ばかり。
お互いに気に入らない相手を打倒するばかりでは、いつまで経っても先へ進まない。
相手の意見を取り入れながら、如何にバランスを保ちつつ、国のためになるよう政治を進めるか。
それがまったくできていない日本。
打倒するために、相手のミスばかりを探し、国民を見ていない。
やはり、本質を見失わずに筋を通すということが重要だ。
蓮舫議員の国籍に関することも、自分自身が日本の国会議員として何ら問題が無いと考えていたのであれば、指摘された時点でしっかりと説明すればよかったのだ。
なぜ、今になったのか?
子どものことを理由にしていたが、何も子どもの記載まで見せろなどと言ってはいない。
つまり、行動に筋が通っていなかったのだ。
だから、何かあると思う人が多くなるのだ。
本質を見失わず、その本質のためにしっかりと筋を通していれば、小林よしのり氏のように「蓮舫代表の記者会見に感動した 」と思った人がもっと増えたであろう。
結局は、自分の都合、保身を優先させたがために今になったということだろう。