ヤフーオークションで戦没者の遺品が出品されているそうな。
出征の時に手渡されたであろう寄せ書きされた日の丸などが出品されているが、多くの人達の思いが込められている遺品を金に換えようと思うのはなぜなのか?
それほど生活に困っているのか?
何よりも金が欲しいのか?
まぁ、「法的に問題は無い」のだから人の勝手だ。
しかし、かつて都庁に「法的に問題は無い」を連発していた人物が居たが、その人と同じような人間だということは想像できる。
私利私欲にまみれながら都庁に居座ろうとした人物に対して、「法的に問題は無くとも、人としてどうなの?」と思った人は多かっただろう。
それと同じだ。
時代の流れとして流してよいもなのか、人の心、日本人の心が薄っぺらいものになったと、残念に思うべきことなのか、これまた人それぞれでしょう。
しかし、このことに限らず、どうも、日本人の心が安っぽくなったと感じることが増えているように思う。
寿司職人の修行に10年も必要ないと言う人物もいて、10年経って自分に向いていないとわかっても遅いからなどと理由を述べていたが、
そもそも、寿司職人に向いていない人が10年も修行し続けることなどできないだろう。
向いていない人は数年で気付き、諦め、やめていくのが自然だ。
つまり、寿司職人になるのに10年必要という意味ではないのだと思う。
10年続けられれば職人と名乗っても、職人と呼ばれても恥ずかしいものではないというもの。
それを、まるで資格試験や免許でも取るかのように「一定期間学習すれば合格できます」みたいに捉えていること自体がおかしいのだ。
そんな形式的な、表面的な薄っぺらいものではないということ。
心がわかってねぇなぁと思う。
何でも数字で考えるからだ。
数字や言葉で表現できないものもある、ということを忘れている。
表面に見えることだけを捉える文化、心ではなかったはずの日本が、表面をぺらっと見ただけで判断するようになったのはなぜなのか?
ヤフーオークションに戦没者の遺品が出品されるようになったのも、それに関係しているように思う。