フランスでのイスラム過激派によるテロがあり、100万人を超える人々が反テロの行進に参加している。

これが間違って反イスラムになることのないよう願う。

そんな中、襲撃された週刊紙シャルリー・エブド制作会社が再びムハンマドに見立てた風刺画を使い週刊紙を発行。

発行した側やイスラム教徒の少ない西側諸国の多くはイスラムを侮辱しているに値しないと言っている。

しかし、侮辱に値するか値しないかは受ける側の判断であって、イスラム教徒でもなければイスラムに詳しくない人達が判断すべきことではない。

日本の社会問題にもなっている「いじめ」と似ている。

いじめた側は「あれはプロレスごっこをしていただけでいじめたつもりはない」

いじめられた側は「あれはプロレスごっこではなく辛いいじめだった」

傍観者は「プロレスごっこをしているのは知っていたけど、いじめなのかそうでないのかわからなかった」

みたいな感じ。


イスラム教に詳しいわけではありませんが、イスラム教には偶像崇拝がなく、神は形にするものではないという考え方があるらしいです。

にもかかわらず、ムハンマドをイラストで表現されてしまうというのはイスラム教徒の人たちにとってどのような気持ちなのでしょう?

もしかしたら、イスラム過激派でなくとも嫌な気持ちになったり、侮辱されているように思えたりするのかもしれません。

言論の自由も理解できますが、自由だからといって関係する人たちのことを考慮せずに何でもやっていいというものではないでしょう。

ユーモアのつもりでやったことが誰かを傷つけていたということは日常でもあることです。

そこまで考えつつ、それによって起きたことに責任を持つからこそ、自由が認められるのです。



今回のテロはイスラム教が悪いのではなく、暴力で物事をどうにかしようとする考えが間違っているのです。

イスラム教に関することで風刺するのではなく、ただ単に間違った考え方による暴力について風刺するのが筋でしょう。




このテロ事件の前にも似たような出来事がありました。

アメリカで制作された北朝鮮の指導者を暗殺するという映画。

言論と表現の自由があるのでどんな映画を作ろうが勝手ですが、自分が殺される映画を世界に流されるというのは気分の良いものではないでしょうね。

小馬鹿にされ、殺される。

イラっとすることでしょう。

この程度の映画を理由にサイバーテロや爆破予告で脅すというのもどうかしていますが、この程度の映画を作るのもどうかしているのでは?

「どうかしている」の程度の違いがあるだけで、どちらもどうかしている。

言論や表現の自由という権利を行使するならば、それによって起きるであろうこと、起きたことに責任を持つという義務を負うべき。

まぁ、この件については、こうなると予想していたことでしょうけど。



イスラム過激派に対する言論や表現をイスラム教に絡めて風刺するというやり方が本当に正しいのか、筋が通っているのか。

イスラム過激派の行いをイスラム教の指導者たちも批判しているのだから、イスラム過激派とイスラム教を分けて考えてもよいのではと思う。

イスラム教の教えを間違って解釈している武装集団。

自分たちの理想を武力で実現するためにイスラム教を利用している集団。

そんな風に考えるべき時代なのではと。

そうでなければ、正しいイスラム教徒までもが敵視されてしまう。

はっきりと分けて考えるようにするためにも、イスラム教に絡めて風刺するのは避けるべきだと考える。