御忙しい住職様のために時間を有効に使って頂こうという考えから開発を行ったらしいこの卒塔婆プリンター。
供養のための卒塔婆を用意することこそ、寺の住職の本職だろうと思うのは私だけなのだろうか?
人の念が込められていない卒塔婆を立てることに何の意味があるのだろう?
それこそ、形だけ~ ではないか!
目に見える形だけならば、必要ない!
そんなものに数千円も払うくらいなら、私自身でしっかりと故人のために一文字一文字思いを込めて書く!
卒塔婆にすら思いを込めないのであれば、お寺ではなく、単なる墓管理会社と言っていいだろう。
ということは、単なる法人だ。
しっかりと法人税を納めてもらうべきだろう。
漢字一文字にも意味が込められているように、それを連ねたお経には相当の意味が込められている。
その文字を一文字一文字書くことも修行のひとつとしてあるはずだが、
今はそれすら行わないのだろうか?
だとしたら、写経をしている私の方がよほど修行をしていることになってしまう。
お寺がそんなことでよいのだろうか?
私がお経をすべて覚えてしまったら、お寺の出る幕が無いではないか。
・・・それも面白いかもしれない
法要の時に、素人の私がしっかりと間違えずにお経を唱えたら
さらに、何十枚、何百枚もの写経を納めたりしたら
それで、プリンター印刷の卒塔婆なんぞ持って来ようものなら、
「あっ、形だけなら結構ですよ。」、
「私がすべて思いを込めてできますので。」なんて言ってみたりして。
文字を人の手で書くことにはそれなりの意味と効果があることが科学的にも実証されている。
子どもの頃に誰もがやった漢字練習。
あれをいくらプリンターで印刷したところで、漢字を覚えることはできない。
それこそ、インクと紙と時間の無駄となる。
その逆も同様。
単なるデータ、情報を伝えるだけならプリンターで印刷したものでよかろう。
しかし、思いを伝えるのであれば、手書きの短文でも充分に伝わる。
プリンターで印刷された短文と手書きの短文、どちらが効果的かは年賀状をもらって見た時の気持ちでわかるだろう。
プリンター印刷で手書きの短文で伝わる思いと同様の思いを伝えるためには、同じ短文では足りず、つらつらと長文で説明文を作らねばならないだろう。
しかし、長文になればなるほど、人は読みたくなくなる。
長文を練り上げる時間とそれを印刷するインクと紙が無駄となる。
何が重要なのか、何が本質なのかを見極め、それを見失わずに事を成すことが大切だと思う。
プリンター印刷で見た目きれいに作られた卒塔婆よりも、
多少格好悪くとも、手で思いを込めて書かれた卒塔婆の方を他界した父は喜ぶことだろう。
あの世に行けば、当然、家も車も金も自分の体さえも形のないものになる。
だからこそ、形の無い思いというものが、より大切になってくるのだと思う。
ちなみに、お世話になっているお寺さんは卒塔婆を手で書いてくださっています。