どうも読売新聞の社説が気になって仕方がない。


気になるとは、素晴らしい内容だからではなく、内容があやふやだからだ。



6月1日朝刊の社説に、「容認とは福井県に失礼だ」という見出しでの文章があったが、


書かれている内容に一貫性が無い。


普通に読んでいる分には感じないかもしれないが、物事の本質を問い正している面もありつつ、本質にそわない面を高評価していたりして、


そういった部分が気になって仕方がない。


これは、書いている人本人が本質を理解していないからなのだろう。




文章の初めの方で、野田首相が大飯原発再稼働について、「最終的には私の責任で判断すると表明したことについて評価する」と書いていた。


これは、物事の本質から外れたことを評価していることになる。


なぜなら、たかが首相に責任など取りきれるはずがないからだ。


野田首相が言った「私の責任で判断する」とは、私の責任で再稼働させるということだろう。


だとしたら、万が一、再稼働した原発で事故が発生し周辺に被害が及んだ場合、野田首相が責任を取るということなわけだ。


責任とれるのか?


放射能汚染された場合に、その土地を回復させることができるのか?野田首相個人で。


不可能だろう。


つまり、騙していることになる。


本質を追求するならば、このような野田首相の発言を高評価することなどできないはず。


結局は、責任をとるのは野田首相ではなく、国民がそれを負わされることになるのだから。


それが本質。



そして、社説文章の終わりの方では、「大阪は福井県の原発で発電された電力で発展してきたのだから、容認するしないを言える立場ではない」という内容が書かれていた。


ここでは物事の本質を追求するかのような文面だ。


結局、読売新聞の社説においては、物事の本質よりも、ただ単に「原発を再稼働させるべき」ということを言いたいだけなのだと判断できる。


随分と薄い内容だと感じた。


まさに、マスコミが国民を煽るというのはこういうことなのだろう。


やはり、本質をしっかりと見据えることは重要だ。




この大飯原発再稼働については、電力が不足して停電になるのが嫌なら再稼働させればよかろう。


しかし、その間に万が一にも地震、津波が発生し事故にまで至った場合。


誰がどのように責任を取るのかを明確にしておくべきだろう。


口約束的に首相が「私の責任で」などと言っても、結局は国民の税金によって処理するだけなのは目に見えている。


被害を受けるのも国民、事故処理するのも国民、責任を取るのも国民。


それを踏まえたうえで国民が判断すべき問題だと思う。


物事の本質を追求していないマスコミや政府、官僚が「再稼働すべきだ」と言える問題ではない。



しかし、原発を再稼働させないと電力供給維持できないなんて、日本はその程度の技術しかないのですねぇ。


「原発がダメ? それじゃこれで」と言えない技術立国。