やはり理解できません。
国歌、国旗を日本のものと認めないのなら、それらを日本のものとした理念のもとに教育を行っている公立の学校に所属すべきではないのではと思うのです。
教育は公立学校でのみ行われるわけではないですし、そもそもの根源である現在の国歌や国旗を変えたいのであれば、教師ではなく別の道へ進む方法もあるわけですし。
長年続いている問題ですが、今となっては何をどうしたいのかよくわかりません。
国歌斉唱時に起立を強制させることが、思想精神の自由に反すると言うのならば、算数の嫌いな子に算数の授業を強制することも思想精神の自由に反するのでは
などという屁理屈も正当化されてしまいそうで、そちらの方が怖い。
国歌斉唱時の起立のことよりも、日本の教育そのものを考えていかなければならない。
その過程で国歌斉唱時の起立について考えるべきです。
戦後半世紀以上が過ぎ、私自身も戦争を経験していませんが、学生時代から様々な書籍やインターネットで調べていて、最近感じることは。
どうも日本の教育は自虐的過ぎるのでは?ということ。
世界情勢という背景がありつつ、日本は仕方なく戦争を始め、その過程において敵国、自国双方に多くの犠牲者を出してしまった。このようなことは繰り返してはならない。
おおまかにはそういった内容の教育です。
確かに、おおまかに捉えると間違ってはいないのですが、
南京虐殺については、写真の信憑性も年々怪しくなっているにもかかわらず、日本軍が行ったこととして教科書には書かれており、学校では「酷いことをしたものだ」という雰囲気で授業が行われる。
しかし、
東京大空襲や広島、長崎の原爆投下については、その恐ろしさは教えるが、そのことの意味合いについてはあまり触れない。
日本人という立場ではなく客観的に見れば、
東京大空襲は工場地帯や軍事施設を狙ったものではなく、何の抵抗もしていない一般市民を狙った空襲でした。
これは虐殺でしょう。
空に向けてミサイルを打っているわけでもない市民を焼夷弾などで焼き殺す、しかも、密集地帯の東京下町、死者は10万人以上。
広島、長崎の原爆投下も一般市民が犠牲になることをわかっていての投下。
一瞬にして20万人もの市民を虐殺したと言えます。
そして、当時の満州ではロシア軍が侵攻し、そこでも日本人の多くが殺害されている事実があります。
なぜ、これらのことはあまり詳しく教育しないのか?
間違ったことをした国なのだから、多くの一般市民が殺されても文句は言えない?
それとも、間違ったことをした国の一般市民を虐殺してもよいという教え?
そうとらえられてしまいます。
国が悪いことをすれば、その国の国民はすべて悪者。
その国の一部の国民が悪いことをすれば、その国は悪い国。
そういう考えが争いを大きなものにしてしまうのではありませんか?
アメリカの一軍人がアフガニスタンの一般市民を殺害してしまった。
アメリカという国が悪者なのだ。
だからアメリカ市民を殺害して報復しよう。
こうして争いが拡大し、最悪は戦争となる。
なぜ、国と人とを区別して考えられないのか。
日本の教育問題から世界情勢へと話がそれました。
教育では物事の本質をしっかりと教えてもらいたい。
「間違ったことをしたのだから虐殺されても文句は言えない」みたいな教え方ではなく、
「事情はどうであれ、これをやってはいけない」という教え方。
個人個人の考え方がぶれないように、しっかりと本質をとらえられるように教育すべきではないでしょうか。
個人個人の考えがしっかりと本質をつかんでいれば、大勢に流されて戦争に傾くことだって防げるのです。
そうするための教育であってほしい。