私は、3年前、意を決して、精神科にかかった。
30年前というと、精神科にかかったら
「あいつは異常者だ。近づくなよ。」
とか
「家族もろくでもないかもしれないから、気をつけろよ。」
とか
まぁ、言葉の正確さはさておき、『精神科にかかっている』ということが悪い方にとられる時代だった。
当時、まさにその時に、精神科の・・・プロの力をかりていれば、こうはなっていなかったのかもしれない。
でも、そう考えても、時は戻らない。
某芸能の会社の性犯罪が表に出て、大変なことになったが、それに似ている。
当時、その当時に「私、性犯罪にあっています。」なんて、言えたわけがない。
今でも、とんでもない勇気と助けとがあったに違いない。
でも、それでも、被害者たちは、告発した後も、苦しい思いをするし、そのすべての人が救われるわけでもない。
中には、「やっぱり、言わなければよかった。」と思う人が必ずいる。
私の場合、性犯罪ではないが、ある事件の被害者に当たる。
ここの話での結論を先にいうと、「今更、精神科にかからなければよかった。。。」と思っている。
30年間、頭の中だけでなく、実際に3D映像状態で、24時間365日映像として目の前に映し出されているその光景を、診断を受けるためには、一から全部カウンセラーに話さなければならなかった。
カウンセラーだけでなく、医者にも同じ話を違うタイミングで話さなければならない。
また、医者が異動になると、新しい医者にまた話す。
私の場合、合計で7人の人に30年間打ち明けずに、表に出すのが怖くて出せなかったものを、話す羽目になったわけだ。
苦しかった。
これだけ、webなどをはじめ情報を得ることができる世の中で、精神科の人たちの治療の方法や経過、考え方や、何なら論文を読むこともできる。
当事者である私からすると、精神科の人たちの論文も理解できるようになっているのだ。
30年だからね。
少しずつでも知識は増えるよ。
なんなら、若いカウンセラーの人より研究してる状態だ。
でも、医者やカウンセラーは、マニュアルに沿った言語を使い、当たり前のように私たちの心の中に入ってくる。
仮に同じ境遇だったとしても、精神科の医者やカウンセラーになった段階で、こちらの人間から、そちらの人間に変わる。
こちらのことは分からなくなるのだ。
私と同じ境遇の人には、結構会っている。
意外といる。
必死で生きているんだ。
そういう人の周りには必ず、お節介さんがいる。
説き伏せようと、自分の知識を押し付けようとする。経験とかではなく知識。
そんなところに、私が居合わせる時、特別なことはしない。
何なら、何も知らないくらいにして話したりする。
つまり、『普通』にするわけだ。
「受容」「傾聴」「共感」
みたいなものは、時として、悪となるんだよ。
私は、それに一番苦しめられた。
今日はここまでにしよう。