日本においても
建築学者の上田篤は「海辺聖標」という概念を唱え、日本列島の聖地は海に近いところに営まれる傾向があるという。玄界灘の沖ノ島はもとより、安芸の宮島、熊野、伊勢神宮などが代表であろう。熱田神宮や鹿島神宮ももともと海岸縁にあった。沖ノ島あるいは三陸の金華山などは島の形そのものが公開の目標として適し、そこにやがて聖地として神社などが営まれるようになったと思われる。
上田によると、日本の古墳の多くも海浜に作られる。
(略)
古墳が単独でランドマークになったわけではないだろう。機器を用いなくても猟師は「ヤマアテ」といって、海岸の木や建物のてっぺんを背後に見える山の頂と直線で結ぶことによって漁場の位置を確認した。視線のベクトルは1本だけでは海上の位置が定まらないから、同時に2方向、あるいは3方向に同じようなベクトルを作って、その交点で海上の1点をさだめたのである。
「古事記」の 神武天皇の東征のときも水先案内人が航路上のランドマークを見ながら導いたとされる。
(略)
関門海峡に進めば本州側に若宮、仁馬山(じんばやま)古墳、海峡を越えると長光寺山古墳、本山岬に大判山古墳がある。
九州側には石塚山古墳、国東半島には伊美鬼塚(いみきづか)古墳が瀬戸内海を眼下に見下ろす。これらを前後左右に確認しながら周防灘を進んだのであろう。
瀬戸内海最大の難所である来島海峡を見下ろす丘の上に愛媛県最大の前方後円墳である相の谷(あいのたに)一号墳と二号墳があり、瀬戸内海東端の海上交通の拠点香川県さぬき市の津田湾には四国最大の前方後円墳富田茶臼山古墳(全長140メートル)がある。また本州側では海運の要衝牛窓湾(うしまどわん)を囲むように天神山をはじめ50から100メートル級の前方後円墳が海を見下ろしている。
ほとんど平野のない場所に、なぜわざわざこのような大型の古墳を建造したのだろうか。それは海を支配する集団が航海の目印とすると同時に、おそらく信仰の関連でつくったものと思われる。死んだ首長は支配する海域、あるいは自分たちの移動してきた海に臨むところに葬られ、海行く人々は日々祖先に安全を祈り、祖先に見守られて海を行き来したのであろう。
古墳は現在うっそうとした森のような状況となっている。しかし建造当事は墳丘ははっきりとしたエッジをもって白い葺石(ふきいし)で覆われた幾何学的な建造物であった。たとえば明石海峡本土側、全長194メートルの五色塚古墳がそうである。(略)内陸の山頂を重ねてみることによって「ヤマアテ」の目印ともなりうるものであった。