一方、新型コロナウィルスによって立ち現れている人道主義とは、相手が誰かで「区別はしない」。なぜなら、感染症は人種の違い、貧富の差、思想の違いとは関係なく、誰でもかかるものだからだ。災害時の助け合いは、敵だから見捨てるとか、味方だから救助するとかいう性質のものではない。これはシンパシーではなくエンパシーである。

 

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坂口安吾の言葉を借りれば、「人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ち抜くためには弱すぎる」(「堕落論」)のだ。
安吾のこの言葉から連想するのは、近年いろいろなところで耳にしていた破壊願望だ。こんな社会ならいっぺんチャラになった方がいい。一度沈むところまで沈まないと、世の中は変わらない。こういう言説を、コロナ禍の前によく聞いた。何もかもぶっ潰してゼロから作り直そうというやつである。ちょっと考えてみれば、そんなことをすれば貧しい者や健康でない者、リソースを持たない者からぶっ潰れて行くことはすぐにわかるのに、弱者を守る社会をとか言っていた人に限ってそんな言説に走って行った。
彼らはその原因を「絶望」だと言った。
が、実は「絶望」が原因ではないのではないか。人は「知っている」というguiltにだんだん耐え切れなくなってきていて、そのような重みには到底耐えられない可憐な人間のコレクティブな無意識が破壊を選ばせてしまっていたとすればどうだろう。そうだとすれば、コロナ感染拡大危機のような非常時に、地べたの人々の助け合いのスピリットが「待ってました」とばかりに生き生きと立ち上がる理由も納得できる。
つまり、わたしたちはguiltから解放されたいのだ。エンパシー能力が高い人ほどguiltは強い。遠くの見知らぬ人々の靴まで履こうとするともう先進国の人間は罪の意識を感じるしかないからだ。

 

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ロックダウンという非日常が終わり、労働する日常が戻ってくると、すっかりアナキズムは姿を消した。レベッカ・ソルニットが『災害ユートピア』で書いたように、アナーキーな相互扶助は災害時とか非常時とか、人間が通常の社会経済のシステムから外れたときには顕現するのだが、いつも通りにシステムが回転し始めるとたちまち姿を消し、また世代間闘争のような熾烈な椅子取りゲームが戻ってくる。

 

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昔、マーガレットサッチャーは「社会などというものは存在しません」と言ったが、もはや新自由主義は「人間などというものは存在しません」の領域に来ているのかもしれない。

 

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本書の冒頭で、アナーキーとエンパシーは繋がっている気がする、というきわめて主観的な直感を述べ、アナーキック・エンパシーという新しいエンパシーの種類を作る気概で書く、と大風呂敷を広げたのだったが、実は両者は繋がっているというより、繋げなくてはならないものなのではないか。アナーキー(あらゆる支配への拒否)という軸をしっかりとぶち込まなければ、エンパシーは知らぬ間に毒性のあるものにかわってしまうかもしれないからだ。両者はセットでなければ、エンパシーそれだけでは闇落ちする可能性があるのだ。